朝鮮半島を統一した新羅だが、長い政権の間に内政の腐敗を招き、各地で頻繁にクーデターが起こるようになった。その結果、後百済(フベクチェ)と後高句麗(フコグリョ)という国が生まれ、再び三国がてい立する後三国時代に突入した。この状況に終止符を打ったのが、後高句麗の武将・王建(ワン・ゴン)だった。彼はクーデターを起こし、自ら王に就任。新国家の高麗(コリョ)を建国した。
北方への侵攻
高麗という国号には、高句麗の後を継ぐという意味が込められている。
王建が最初に目指したのは、過去の高句麗の土地を領土にすることだった。彼は高句麗の首都だった平壌(ピョンヤン)を西京(ソギョン)と呼び、高麗の首都・開京(ケギョン)に次ぐ都市として重要視した。
王建は平壌に北方への侵攻拠点を築くと、1年のうち100日以上をそこで過ごし、北伐への機会を待った。当時、北方には渤海を滅ぼした契丹が国を構えており、高句麗の領土を独占する契丹を、王建はひどく毛嫌いしていたのだ。
そのため、高麗と国交を持とうとする契丹から使節30人とラクダ50匹が送られたときも、彼は使節を島流しにし、ラクダは橋に縛って飢え死にさせた。こうした対応は、中国大陸の国との関係も悪くさせ、後の蒙古の侵攻に繋がっていく。
そうした王建の意地は、高麗が鴨緑江(アムノッカン)流域まで領土を拡大する原動力になった。
対外政策だけではなく内政面でも王建は独自の方法を取った。彼は有力な豪族とは、必ず婚姻関係を結んだ。姻戚関係になることで、豪族たちの反乱を防いだのだ。
そのため、王建には29人の妻がおり、その間に25人の息子と9人の娘が生まれた。結果として、王建が生きている間、豪族たちは争うことなく彼に従った。王建は政略結婚を通して、国政を安定させたのだ。
943年、高麗の基礎を作った王建は亡くなった。彼は遺言として「王位は長男が継ぐこと」「仏教を大切にすること」などの「訓要十条」を残した。これは、高麗の政治指針になった。