1607年に始まった江戸時代の朝鮮通信使。17世紀には合計で7回も朝鮮通信使が来日している。徳川幕府の創設者の家康と基盤を磐石にした家光。この2人の大物将軍が朝鮮王朝との善隣関係に力を注いだことが17世紀の両国の蜜月につながったのである。
新井白石の改革
朝鮮通信使の初来日から100年が経過すると、経費が莫大にかかることが問題視されるようになった。
特にその声を大きくしたのが新井白石だった。
彼は6代将軍・家宣(いえのぶ)に抜擢された儒学者で、自らの手腕を世に知らしめたいという野心を持っていた。
そんな彼が目をつけたのが朝鮮通信使だった。幕府が総力をあげて招聘する朝鮮通信使に関する諸問題を改善すれば、さらなる名声を得られるのが必然であった。
ちょうど1711年に8回目の朝鮮通信使が来日することが決定した。名目は家宣の将軍襲職祝いである。この機を絶好と捉えた新井白石は、特に2つの点で改革を断行したいと考えた。
1つは経費節減である。道中の過剰な饗応を戒めて、より質素な形で朝鮮通信使に応対することを幕臣や各藩に命じた。
もう1つは徳川将軍の呼称問題である。徳川将軍は朝鮮王朝に対して「日本国大君」と称していたのだが、それを「日本国王」にすべきだと新井白石は考えていた。
彼の意向は朝鮮王朝に伝えられた。そのうえで1711年に趙泰億(チョ・テオク)を正使とする朝鮮通信使が来日したのだが、このときは国書に入れる文字をめぐって紛糾することが多かった。明らかに、新井白石がめざした改革は朝鮮王朝側の激しい反発を生んでしまった。
このままでは国交断絶か。
そんな危惧も生まれたほどだ。ぎりぎりになって両国の決裂は回避されたが、今度ばかりは朝鮮通信使の来日も非常に後味が悪いものになってしまった。
これも、新井白石が功をあせりすぎたから、と言えるだろう。
彼は1716年5月に徳川吉宗が8代将軍に就いた直後に重職を解かれてしまった。
徳川吉宗の将軍襲職を祝賀する朝鮮通信使が漢陽(ハニャン)を旅立ったのは1719年4月のことだった。
正使は洪致中(ホン・チジュン)。一行の総人数は475人だったが、その中には日本紀行文『海游録』を著した製述官の申維翰(シン・ユハン)がいた。
この申維翰が対馬に立ち寄ったときに出会ったのが雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)である。
雨森芳洲は儒臣として対馬藩に仕えていた人物で、釜山の倭館に長期滞在した経験があって朝鮮語が堪能だった。それだけに、朝鮮通信使が来日したときには対馬藩の役人として使節に同行していた。
その8年前に朝鮮通信使が来日したときには新井白石が独自の改革案を強行しようとして軋轢が生じたが、幕府はそれに懲りて「応接を旧来に戻す」という方針を立てていた。その甲斐があって、1719年10月1日に朝鮮通信使が江戸城で8代将軍・吉宗に謁見したときも万事が順調に推移した。
公式行事を終えた朝鮮通信使は、1719年10月15日に江戸を出発。申維翰も成果を実感して帰路につくことができたのだが、最大の難事はむしろその後に起こってしまった。それは、朝鮮通信使が京都に滞在したときのことだった。
幕府は方広寺で朝鮮通信使を饗応しようとした。しかし、朝鮮通信使がそれを素直に受けるわけにはいかなかった。なぜなら、方広寺は豊臣秀吉が大仏を安置するために創建させた寺であることを知っていたからである。
朝鮮通信使の反発が予測できるのに、なぜ幕府は方広寺で饗応の席を設けようとしたのか。
方広寺のとなりには耳塚があった(鼻塚とも呼ばれる)。この耳塚は、文禄・慶長の役の際に朝鮮半島の人々から裂いた耳や鼻を日本に送って一堂に埋めた場所なのである。そういう場所であると知りながら、あえて幕府は饗応の席として選んだ。日本の武威を強引に示そうという狙いがあったと思われる。
洪致中は憤然として拒否したのだが、幕府と対馬藩が「予定通りに行ないたい。前回も行なっていることである」と譲らない。問答は険悪になる一方であった。
洪致中は「賊(秀吉)は、我が国の100年の仇。そんな賊が関わる場所で酒を酌み交わすことができるはずもない」と嫌悪感を露にするが、幕府と対馬藩は「門の外に幕を張って席を設ける」という代替案を出したり、「方広寺は秀吉より徳川将軍家に縁がある寺である」という歴史書籍を持ち出したりした。
話はこじれるばかりだったが、最終的には朝鮮通信使側が「正使と副使が出席して、従事官は欠席する」という妥協案を出した。主要三役の1人の従事官の欠席が抗議の意思表示だったのである。
帰路の途中まで順調だった9回目の朝鮮通信使の来日。京都での饗応で事件が起こり、結局は後味が悪いものとなってしまった。
そういった経緯をすべて知りながら、それでも雨森芳洲は自著の中で「誠信の交わり」を説いている。
「誠信というのは『まことの心』であり、互いにあざむかず争わず、真実をもって交わることなのです」
来日時に雨森芳洲と交流を重ねた申維翰は、帰路に対馬で雨森芳洲と別れた場面のことを自著『海游録』で書いている。それによると、雨森芳洲が涙に濡れながらこう言ったという。
「私も年を取りました。再び世間で仕事に励むことはないでしょう。これ以上、何を望めるというのですか。願わくば、君が国に帰って大いなる出世を果たすことを!」
雨森芳洲は51歳で、申維翰は38歳だった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)