光海君を追放して仁祖(インジョ)が16代王として即位したことで、長男であった昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)の立場も大きく変わった。本来なら、王族の一員とはいえ政治中枢から遠い場所で一生を送らなければならなかったのに、一転して世子となり次代の王位が約束されたのである。
過酷な降伏条件
昭顕世子が16歳のときに姜氏(カンシ)を嫁に迎えると、次々に3人の息子が生まれた。彼は朝鮮王朝の次代の国王が約束された身分だった。
そんな昭顕世子の人生を大きく変えたのが、1636年に起こった丙子胡乱(ピョンジャホラン)である。朝鮮王朝は侵攻してきた清に屈伏し、仁祖は清の皇帝の前で額を地面につけて謝罪した。それは、長い朝鮮王朝の歴史の中で、王がもっとも恥をかかされた瞬間だった。
このときに清が朝鮮王朝に突きつけた降伏条件は過酷だった。「清に対して君臣の礼をとること」「明との友好を断絶すること」「清が明を攻めるときは援軍を送ること」といった項目の他に、「王の息子を人質として清に送ること」ということも強要された。朝鮮王朝はこれらを受け入れざるをえなくなり、仁祖は息子の昭顕世子、鳳林(ポンニム)、麟坪(インピョン)を清に送った。息子たちと別れるとき、仁祖はずっと慟哭(どうこく)していたという。それほど別れがつらかったのだ。
昭顕世子の場合は、正妻の姜氏と一緒に清の瀋陽(しんよう)に送られた。夫婦は若くして異国での人質生活に耐えなければならなかった。
ただし、つらいことばかりではなかった。
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