3人の世子に大注目!

世子(セジャ)と言えば、皇太子のことである。国王が死ねば次の国王になる王子たちであり、非常に重要な役割を担っていた。その世子の中で、3人の悲劇的な人たちを取り上げてみよう。





昭顕世子(ソヒョンセジャ)

朝鮮王朝では、世子はおおむね5歳くらいで指名され、10歳ほどで結婚することが多い。東宮(トングン)とも呼ばれており、実際に王宮の中で東側に住んでいた。
世子には専門の官庁が用意され、毎日の勉学を通して帝王学を授けられた。こうして、国王になる準備に励むのである。
必然的に、国王が死ねば世子が次の王になる。しかし、朝鮮王朝の長い歴史の中では世子でありながら国王になれずに世を去った人たちもかなりいる。その中で特に有名なのが3人の世子だった。
1人目は、16代王・仁祖(インジョ)の統治時代に世子だった昭顕世子(ソヒョンセジャ)である。
彼は中国大陸を制覇した清の人質となり、1637年から1645年まで清に連行されたままだった。
しかし、昭顕世子にとってそれは辛い生活ではなかった。むしろ、西洋の宣教師たちが多かった清で、様々な先進的な文明に触れて大いに感化された。彼は、自分が国王になったときには新しい文明を朝鮮半島に持ち込もうと考えていた。




そして、1645年に人質から解放されて母国に戻った。ところが、清に侵略されて屈辱を味わった仁祖は常に清に強い恨みを抱いていて、清を称賛する昭顕世子に対して不信感を強く持った。
帰国後の昭顕世子と仁祖は険悪な仲になり、わずか2カ月で昭顕世子は急死してしまった。一説によると、仁祖とその側室によって毒殺されたという。
もし、昭顕世子が王になっていれば、朝鮮王朝はどうであっただろうか。
先進の文明を取り入れて改革が成功したかもしれない。そういう意味では、大変惜しい急死であった。
2人目は、思悼世子(サドセジャ)である。
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子であり、小さいころから神童と呼ばれるほど頭脳明晰だった。
しかし、当時の主流派閥だった老論派(ノロンパ)を批判したために、極度に老論派から警戒されてしまった。
思悼世子自身にも問題があり、素行が悪かった。側近に暴力を振るったり、側室を殺したりしたこともあった。こうした素行の悪さが老論派によってさらに歪められて英祖に報告された。




これによって、思悼世子と英祖の親子関係が極度に悪化した。最終的に思悼世子に王位を譲れないと考えた英祖が、息子に自害を命じた。
しかし、思悼世子はひたすら謝罪するばかりで自害しなかったので、英祖は米びつの中に息子を閉じこめてしまった。
結局、その中で餓死してしまった思悼世子。世子の無残な死は、朝鮮王朝の中でも最大の悲劇と言われている。
3人目は、孝明世子(ヒョミョンセジャ)である。
孝明世子といえば、パク・ボゴムが主演した『雲が描いた月明り』の主人公であったイ・ヨンのモデルとなった人物だ。
1809年に生まれた孝明世子は、頭脳明晰で容姿も端麗だったと言われている。今でいえば、パク・ボゴムのイメージにピッタリだ。
息子の才能を大いに買った父親の23代王・純祖(スンジョ)は、孝明世子が18歳のころから政治を代行させた。
その期待に応えて、孝明世子は人事面で手腕を発揮し、芸術振興や王室の儀式の改善などに力を尽くした。




「国王になればどんな名君になるだろうか」
周囲がそのように期待したが、わずか21歳で血を吐いて急死してしまった。
彼がもし国王になっていれば、朝鮮王朝の停滞した政治を大いに改革して、見事な成果を発揮したはずだ。
しかし、孝明世子の急死によってその後の王位継承は混乱し、朝鮮王朝は衰退せざるを得なかった。孝明世子の死は、朝鮮王朝にとっても本当に痛手だったのである。
こうして見ても、昭顕世子、思悼世子、孝明世子の3人は、朝鮮王朝の歴史の中でも「悲劇の三大世子」と言えるだろう。

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