仁粋(インス)大妃の歴史エピソードが興味深い

ドラマ『宮廷女官 チャングムを誓い』の第1回冒頭で、かつての王妃が毒をあおいで死ぬ場面がある。とても印象深いシーンだったが、このときの元王妃が廃妃・尹(ユン)氏である。彼女は、9代王・成宗(ソンジョン)の正室だった。とはいっても、側室から繰り上がったという経緯があった。
インス大妃(#24以降)




姑と嫁の仲は最悪

成宗の最初の正室がわずか18歳で早世したので、成宗は側室の中で一番気に入っていた尹氏を2人目の妻にした。
しかし、成宗の母であった仁粋(インス)大妃は、尹氏のことを「育ちが悪いし、野心的すぎる」という理由で極端に嫌っていた。
さらに、仁粋大妃が尹氏を憎んでいたのは、成宗の最初の正室が早世したことが尹氏のせいだと思い込んでいたからだ。
実は、最初の正室を仁粋大妃はとても可愛がっていたのだが、成宗がその正室のもとに通わず尹氏だけを寵愛していた。それが原因で正室は精神を病んでしまった。
「あの女が殺したも同然だ」
そう思い込んでいた仁粋大妃は、ますます尹氏を嫌った。
姑と嫁の仲は最悪になってしまった。
仁粋大妃は、朝鮮王朝で初めて絶大な権力を握ったやり手の女性である。頭脳明晰で学問に優れていた彼女は、王宮女性の理想的な生き方を記した「内訓」という書物まで書いている。





この「内訓」はその後の王宮女性のバイブルともなった。これほどの姑を敵にしてしまったのだから、尹氏も立場が危うかった。
一方、成宗は尹氏を妻にすると、彼女のところにあまり出向かなくなり、もっぱら側室の間をまわった。このことに嫉妬した尹氏は、巫女(みこ)を使って側室を呪い殺そうとたくらんだ。彼女は、とても嫉妬深い女性だったのである。
そのことが発覚し、成宗は尹氏を遠ざけることになった。
それでも、しばらく時間が経つと尹氏のことが気になり、成宗は久しぶりに尹氏のもとを訪ねた。
尹氏としては成宗との仲を回復する好機だったのに、なにを勘違いしたのか、尹氏は成宗の顔に引っかき傷を作ってしまい、それが大問題に発展した。
これほど不敬の罪はないわけで、激怒した仁粋大妃は尹氏を王宮から追い出してしまった。これによって、朝鮮王朝で初めて王妃が廃妃になるという事態になった。
さすがに尹氏は反省し、実家で質素に暮らしていた。
数年が経ち、成宗の心にも変化が生まれた。





「大いに反省しているようであれば王宮に戻してあげよう」
そう思った成宗は、尹氏の生活ぶりを確認するために使者を送った。
反省して謹慎生活を送る尹氏の姿を見届けた使者は、そのとおりに報告しようとしたのだが、成宗のところに行く途中で女官につかまり、仁粋大妃の前に引っ張りだされた。
仁粋大妃は強い口調で言った。
「『あの女が反省もなく高慢な暮らしをしている』と殿下に伝えよ。さもなくば……」
そんなふうに脅かされた使者は、仁粋大妃の言うとおりに成宗に報告した。
激怒した成宗は尹氏に死罪を申し渡した。それは仁粋大妃の狙いどおりだったが、尹氏にはあまりに過酷な運命となった。
このとき、成宗と尹氏との間には6歳になる息子がいた。
成宗にとっては長男である。
死罪になった廃妃が産んだ子供を次の王にすることに高官たちの抵抗があったのだが、儒教社会ではやはり長男が重んじられる。この長男は成宗が亡くなったあと、10代王・燕山君(ヨンサングン)として即位した。





燕山君は母が死罪なったことを知らないで育った。
なにしろ、成宗が「尹氏のことは絶対に話してはいけない」と釘をさしていたからだ。しかし、出世に目がくらんだ奸臣(かんしん)が燕山君にすべての真相をばらしてしまい、燕山君は逆上した。
暴君として悪名高い彼は、母の死に関係した者たちを大虐殺した。
67歳になっていた仁粋大妃は、出来の悪い孫を叱った。
しかし、もともと燕山君は母が死んだのも仁粋大妃のせいだと思い込んでいる。彼は冷静さを失い、仁粋大妃に頭突きをくらわしてしまった。このときのケガがもとで、仁粋大妃は1504年に亡くなった。
これで燕山君は母の仇を討ったつもりだったのだろうか。しかし、暴虐のかぎりをつくす燕山君は、1506年にクーデターで王宮を追われた。亡くなったのは、廃位になってから2カ月後だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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