中国大陸で589年に隋が統一を果たすと、高句麗(コグリョ)は身が凍るほどの脅威を感じた。それまで高句麗は日本と関係を保っていなかった。しかし、隋の攻撃を受け始めると、「西から侵攻を受けるなら、東の国と連携しよう」という気持ちに傾き、日本との外交に乗り出した。
慧慈と聖徳太子
高句麗が日本と関係を持つと、多くの僧侶が日本にきて様々な文化を伝えている。
中でも、595年に来日した慧慈(えじ)が有名だ。
彼は聖徳太子の師匠と言われる。
聖徳太子は慧慈の支援を受けて、仏教教典の研究会を創設した。そして、仏教教典の注釈書作成を行なった。
作成には渡来系の僧侶も加わった。
しかし、聖徳太子に一番頼りにされたのが慧慈だった。
彼は日本に長期滞在して615年に高句麗に帰国した。
その7年後だった。
聖徳太子が世を去ったことを知らされたのだ。
慧慈は慟哭(どうこく)した。
彼は自ら供養を行なって聖徳太子を讃えた。
「日本に聖人がおられた。天から優れた資質を受け、大きな聖の徳を持ってお生まれになった方だ」
慧慈は悲壮な覚悟を持った。
「人民の苦しみを救われた本当の大聖が亡くなられた。我は国を異にするが、あの方との心の絆を断つことはできないし、1人で生き残ってもなんら益がない。来年のご命日に我も往生する。浄土で太子にお会いして、一緒に衆生を救いたい」
慧慈は自らの言葉どおり、聖徳太子の翌年の命日に往生した。
他に、高句麗から曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)が610年に来日。当時、高句麗は隋の攻撃を受けて危機に瀕していた。2人の来日には支援を模索する目的もあったかもしれない。
曇徴と法定は聖徳太子と接触。曇徴は五経(儒教の古典で詩経、書経、易経、春秋、礼記をさす)について日本に詳細に伝えた。
曇徴たちは製紙方法や墨の作り方も伝授した。
それが、日本で写経が行なわれる契機となった。高句麗の彩色技術も、仏像の塗装や飛鳥美術の発展に寄与した。
文=康 熙奉(カン ヒボン)