東京の浅草寺の本尊は観世音菩薩だが、隅田川から引き上げられたという縁起(由来)がある。その由来には、いったいどんな要点があるのだろうか。
川の中から出てきた仏像
その昔、隅田川で檜前(ひのくま)浜成(はまなり)、竹成(たけなり)の兄弟が漁をして生活していた。
628年3月18日、この日はいくら漁に精を出しても、網にかかる魚はまったくなかった。落胆する兄弟。そのうち、ようやく網に獲物がかかり兄弟は喜んだが、引き上げてみると一つの仏像があるだけだった。
兄弟はその仏像の価値がわからず、すぐに川に投げ捨ててしまうのだが、場所を変えて網をしかけても、何度も仏像が引き上げられた。
「これは大変なものを引き上げたかもしれない」
おそれおののいた兄弟は、仏像を地元の博学として知られた土師中知(はじのなかとも/この氏名には諸説がある)に見せたところ、これが観世音菩薩の尊像であることがわかった。
尊いものを得た兄弟は早速、「明日はぜひ大漁になりますように!」と観世音菩薩に向かって深く祈願すると、その願いがかなって翌日は船から魚があふれるほどの大漁となった。観世音菩薩には大変な御利益があったのである。
やがて土師中知は出家して自宅を寺にし、観世音菩薩を祀って信心深い生涯を送った。その寺が浅草寺の始まりである。
645年、浅草の地を訪れた勝海上人は浅草寺に来て観音堂を建立した。そして、本尊を秘仏と定めた。
以後、この伝統は浅草寺でしっかり守られている。
聖観世音菩薩の発見に功績があった3人(檜前浜成、檜前竹成、土師中知)は浅草の地に建てられた三社権現の祭神となった。この三社権現は1873年に浅草神社と改称されて、今も浅草寺のとなりにある。
以上が浅草寺と浅草神社の縁起なのだが、ここで注目したいのは浜成、竹成の兄弟である。彼らの姓は檜前だが、今も奈良の大和に檜前という地名がある。
古代において檜前は「渡来人の里」として知られた。その渡来人は東漢(やまとのあや)氏という一族で、もともとは5世紀頃に朝鮮半島の南部から日本にやってきた。
東漢氏は檜前を拠点として、ヤマト政権の中で大きな力を持った。それは、彼らが軍事、土木、造船という分野で優れた技術を持っていたからである。彼らの一族からは後に征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)も出ているが、その軍事力は当時の朝廷にとっても大きな脅威となるほどだった。
しかし、東漢氏が特にその存在感を示したのが仏教施設の建設だった。飛鳥寺は日本で最古の寺と称されているが、この飛鳥寺の造営にも東漢氏は関わっていたと言われているし、法隆寺にも東漢氏が制作した仏像があるという。
仏教が伝来して以後、寺院建設や仏像の制作で渡来人が果たした役割は大きいが、その中心的な存在が東漢氏だった。
東漢氏は、高い造船技術を持っていたことから、海を通って東国にも大いに進出したという。東漢氏で大和の出身と思われる浜成・竹成兄弟が隅田川で観世音菩薩を引き上げるという縁起は何を暗示しているのだろうか。
ここで思い浮かぶのが、善光寺の本尊の「一光三尊阿弥陀如来」のことだ。善光寺縁起によると、信濃の国に住んでいた本田善光が難波に行ったときに水の中から突然に一光三尊阿弥陀如来が現れたという。
水の中から現れたという点で、浜成・竹成兄弟が隅田川から観世音菩薩を引き上げたことと似通っている。しかも、浅草寺でも善光寺でも本尊はまったくの秘仏になっているのだ。
善光寺の本尊は、もともとは朝鮮半島から日本に渡ってきたものだという言い伝えがある。一方、浅草寺の本尊に関しては出自が明かされていない。
しかし、その本尊を見つけた浜成・竹成兄弟が「渡来人の里」を象徴する檜前を姓に持つことから、浅草寺の成り立ちに朝鮮半島からの渡来人が大いに関わっていたということが推定できるのではないか。
文=康 熙奉(カン ヒボン)