1701年10月、粛宗(スクチョン)の命令によって、張禧嬪(チャン・ヒビン)は死罪と決まりました。死を覚悟した張禧嬪は「世子に会わせてください」と懇願しました。この世子とは、張禧嬪が1688年に産んだ粛宗の長男です。
張禧嬪の最期
あまりに張禧嬪が懇願するので、粛宗は世子を彼女に会わせました。
張禧嬪は最愛の息子を抱きしめて今生の別れを惜しむ……かと思いきや、実は違うのです。張禧嬪は何を思ったのか、当時13歳になる息子の腹の下あたりをギュっと握って、そのまま離さなかったそうです。
息子はそれにビックリして失神してしまうほどでした。張禧嬪がなぜそんなことをしたのか、いまだに謎です。
その直後、張禧嬪は死罪になりました。享年42歳。その波瀾万丈な生涯はいかにもドラマ向きと思えるのか、彼女ほど韓国時代劇で何度も取り上げられた人物は他にいません。まさに、朝鮮王朝で一番有名な女性だと言えるでしょう。
一方、張禧嬪のライバルだった淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏は、1718年に世を去っています。
張禧嬪に比べると非常に地味で、後世でもほとんど名前が知られていませんでした。そんな事情を一変させたのがドラマ『トンイ』です。この作品で淑嬪・崔氏が主人公のモデルになったことから、今では韓国人の多くが淑嬪・崔氏を知ることになりました。ドラマの影響力はかくも大きいのです。
粛宗は1720年に59歳で世を去ります。後を継いだのは張禧嬪の息子で、20代王の景宗(キョンジョン)として即位しました。
この景宗はとても性格がよかったそうで、張禧嬪とは違って人望もありました。けれど、在位わずか4年で亡くなります。享年36歳でした。
彼には子供がいませんでした。「張禧嬪に腹の下を握られて失神したことが原因では?」とも言われていますが、もともと病弱だったことも影響していたのでしょう。
景宗に後継ぎがいないので、異母弟となる「淑嬪・崔氏の息子」が1724年に21代王になりました。それが英祖(ヨンジョ)です。
朝鮮王朝の中でも政治的な業績が多い名君と称されている英祖。彼の時代は派閥争いが激しかったのですが、英祖は各派閥から公平に人材を登用する政策で成果をあげました。今でいうと、絶妙な人事をする指導者だったといえます。
「そんな王がなぜ……」
そう首をかしげざるをえない出来事を英祖は起こしています。それが息子の餓死事件です。この事件の背景を説明しましょう。
英祖の最初の正妻は貞聖(チョンソン)王后でした。2人の間に子供はいなかったのですが、英祖には側室が産んだ息子が2人いました。長男の孝章(ヒョジャン)は早世してしまいましたが、次男の荘献(チャンホン)は聡明な男子として成長しました。実際、わずか10歳で政治の表舞台に立って意見がいえるほど頭脳明晰でした。しかし、才がまさりすぎて、高官たちを批判して恨みを買ってしまったことが後々に響いてきます。要するに、いたずらに反対勢力をつくってしまったのです。
荘献は生活態度に難がありました。
酒癖が悪かったり自分の側室を殺してしまったり……。
このように、本人に問題があったことは事実ですが、派閥争いの巻き添えになった部分もありました。結局、荘献の行状は尾ひれがついて英祖の耳に届き、それが度重なるにつれて、ついに英祖の堪忍袋の緒が切れてしまいました。
「お前が王を継いだら王朝は大変なことになる。いっそのこと、自害しろ」
英祖は我が子に非情の王命を発します。しかし、荘献は謝罪を繰り返すだけで、自ら命を絶つことができませんでした。英祖の怒りは収まらず、「自害しろと言っても自害しないのなら、米びつをもってまいれ」と側近に命じ、運び込まれた米びつに荘献を閉じ込めました。
いつ死んだのかは不明ながら、8日目に米びつを開けてみたら荘献は餓死していました。なんということでしょうか。父王が世子を飢え死にさせるというむごたらしいことが王宮で起こってしまったのです。
英祖は息子が亡くなってからすごく後悔して、息子に思悼世子(サドセジャ)という尊号を贈ります。「世子を思って心から悼む」という意味でしょうが、なぜ生前に米びつを開けなかったのでしょうか。
ちなみに、餓死事件が起こったのは1762年で、英祖は68歳でした。そして、思悼世子は27歳で絶命しています。
文=康 熙奉(カン ヒボン)