王朝盛衰史2「王朝の基盤を作った太宗」

1398年に2代王の定宗(チョンジョン)が即位しました。しかし、後ろで糸を引いていたのは、弟の芳遠(バンウォン)です。彼は間違いなく、誕生したばかりの朝鮮王朝の最大の実力者でした。

写真=植村誠




憎い継母

定宗は、芳遠にとっては何でも言うことを聞いてくれるいい兄貴でした。しかし、そんな兄貴ばかりではありません。野望が強い人もいます。それが兄の芳幹(バンガン/太祖〔テジョ〕の四男)です。
彼は王になりたいという色気を出して、1400年に乱を起こします。実力者の弟に刃を向けたわけですが、力不足で芳遠の相手にならず、あっさりと敗れました。さすがに芳遠は、身近で一緒に育った兄貴を殺したりはせず、流罪ですませました。
ただし、芳遠は「他の兄弟は大丈夫かな。また謀反を起こす兄弟が出ないともかぎらない」と心配になり、お飾りだった定宗に王の座から降りてもらい、自ら3代王・太宗(テジョン)として即位しました。
太宗は、自分が王になった後に何をしたでしょうか。
継母の神徳(シンドク)王后の墓をメチャメチャに壊して放置し、その一族を連座制で厳罰に処しました。それほど継母が憎くて仕方がなかったのです。




朝鮮王朝は創設期からこのように激しい骨肉の争いがありましたが、結局は518年も続いています。長寿王朝になったのは、強大な権力を握った太宗が国の基盤を徹底的に整備したことも大きかったと思われます。
太祖が作って芳遠が磐石にしたのが朝鮮王朝だと言っても過言ではありません。
3代王・太宗の三男がハングルを創製したことで有名な4代王・世宗(セジョン)です。兄2人をさしおいて王になれたのは、すばらしい学識の持ち主だったからでしょう。実際、歴史に残る名君として安定した治世を行ないました。
これだけの名君が出ると、後を引き継ぐ人が大変です。1450年に世宗が世を去ると、長男の文宗(ムンジョン)が5代王となります。
学者なみに頭がよかったのですが、からだが弱く、わずか2年3カ月の在位で亡くなってしまいます。
その死はあまりに早すぎました。
6代王には文宗の長男の端宗(タンジョン)が就きますが、このときはまだ11歳でした。こういう幼い男子が王になると、王族女性の長老が代理聴政(テリチョンジョン/摂政のこと)をするのがならわしでした。




しかし、摂政ができる長老女性が端宗のまわりにはいませんでした。端宗の母は彼を出産した直後に亡くなっていたのです。
幼い端宗が頼ったのが金宗瑞(キム・ジョンソ)という老臣です。世宗の時代に北から侵攻してきた異民族を食い止める際に大きな功績を挙げた英雄で、別称が「大虎」。そう言われるくらい勇猛な人だったのです。
こうして、金宗瑞が後見人となって端宗を支えました。それでも端宗の王位は安泰とはいきません。
なぜなら、世宗の二男で端宗の叔父にあたる首陽大君(スヤンデグン)が露骨に王位を狙う動きをしていたからです。
兄弟の中で普通は長男に王位が行きますから、二男だと本来は出番がないのですが、この首陽大君は自信過剰で「俺が王にふさわしい」と思い込み、甥から王座を奪う策略を練ります。
実は、文宗も弟の首陽大君の野望を見抜いていました。「自分が死ねば、弟が王位を狙ってくるだろう」と察知していて、亡くなる間際まで金宗瑞に「絶対に息子を守ってくれ」と頼んでいます。
こうして端宗の王位をめぐって金宗瑞と首陽大君が激しく対立しました。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

王朝盛衰史1「李成桂が太祖として即位!」

王朝盛衰史3「世祖と『死六臣』の対決」

王朝盛衰史4「悲劇の国王・端宗」




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