日韓の間にこんな交流があった17/文禄の役

日本が本格的な戦国時代に入ると、日本と朝鮮半島の交流も完全に途絶えてしまった。日本は国内が騒乱状態となって外交どころではなくなったし、朝鮮王朝は太平の世が続いて、感覚的にぬるま湯につかっているも同然だった。あえて面倒な外交に乗り出す気概もなかったと言える。

ソウル中心部にある李舜臣の像




朝鮮王朝が送った使節

朝鮮王朝の危機感の欠如は致命的だった。
豊臣秀吉が1585年に関白に就任した直後から大陸に攻め入る構想を持っていたのに、朝鮮王朝は隣国の事情にあまりに疎すぎた。
秀吉は1587年に九州を平定したが、そのときには中国だけでなくインドまで手中に収めると大言壮語するようになっていて、その意志を強く示すためにも朝鮮王朝の国王を挨拶に来させるように対馬の宗氏に命令していた。
「なにやら日本の雲行きが怪しい」
いくらぬるま湯が気持ちよくても、さすがに朝鮮王朝も日本の動向に疑心を持たざるをえなかった。
1590年、朝鮮王朝は正式な使節を日本に派遣した。表向きの理由は秀吉の天下統一を祝賀するためであったが、実際には秀吉が攻めてくるかどうかを見極めることが目的だった。




秀吉に面会して戻ってきた使節団の中で、正使と副使が国王の前で正反対の報告をした。正使が「かならずや攻めてくるでしょう」と所見を述べたのに対し、副使は「秀吉は取るに足らない人物です。攻めては来ません」と断言した。
正使と副使では立場が違う。格上の正使の意見が通りそうなものだが、実際にはそうでなかった。なんと、副使の意見が通ってしまったのだ。
副使の意見が通った背景には、激しい派閥争いがあった。
当時の朝鮮王朝では政権中枢で党争が盛んだったが、副使が所属していた派閥のほうが権力基盤が優勢だったのである。
そんな事情から「日本は攻めて来ない」という意見が採用され、以後の朝鮮王朝は国防の強化に乗り出さなかった。
結果的に、それがいかに国を存亡の危機に陥れたか。国王や政権首脳はすぐに悔やんでも悔やみきれない立場に追い込まれていった。
秀吉が用意した軍勢は16万。この大軍が9つの軍団に編成されて次々に朝鮮半島に送られた。




1592年(文禄1年)4月13日、小西行長が率いた第1軍が釜山に上陸して「文禄の役」が始まった。
小西行長はまず、釜山城に対して「仮途(かと)入明」(明に入りたいので途中の道を借りたい、という意思)の最後通帳を行なったのだが、朝鮮王朝側がこれに応じるわけがない。
相手が反応しないことを見届けてから、豊臣軍の第1軍は釜山城を攻めて落とした。
小西行長が釜山に上陸してからほぼ20日後の5月3日、豊臣軍は朝鮮王朝の都である漢陽(ハニャン)に攻め入った。
その前に、朝鮮王朝の14代王・宣祖(ソンジョ)はすでに都から抜け出して北に逃げていた。漢陽を落とした豊臣軍は、続いて朝鮮半島の八道を分割して占領することをめざした。
緒戦の大勝に気を良くした秀吉は、自ら朝鮮半島に渡る意欲を見せたのだが、徳川家康や前田利家といった大老たちの反対によってそれをしばらく延期した。
その秀吉に代わって石田三成が朝鮮半島に渡り、朝鮮奉行として実質的に各大名に命令を出した。




各大名は、兵糧米をしっかり確保するために土地を占領して農民を支配することを狙った。加藤清正の場合は、朝鮮半島東北部の咸鏡道(ハムギョンド)の占領をもくろみ、その過程で宣祖の2人の王子を捕らえている。
それが象徴的な出来事だった。朝鮮王朝軍は敗退を続け、朝鮮半島は豊臣軍の思うがままになっていた。
しかし、その窮地から朝鮮王朝の反撃が始まった。各地で土地の有力者を中心にした義兵が組織され、局地的に豊臣軍に抵抗した。
この義兵の活動は燎原の火のごとく朝鮮半島に広がり、豊臣軍を徐々に苦しめていった。さらに、天才的な戦術家・李舜臣(イ・スンシン)が指揮する水軍が、亀甲船という画期的な戦闘船を主力にして戦い、次々に豊臣水軍を破っていった。
これは朝鮮半島に駐屯していた武将たちにとって大変な痛手であった。なぜならば、日本からの補給路を絶たれてしまったからだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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