「王子の乱」とは何か

朝鮮王朝を開国した初代王・太祖(テジョ=李成桂イ・ソンゲ)。その陰には太祖をあらゆる面で支える男がいた。それが鄭道伝(チョン・ドジョン)だ。しかし、王位継承をめぐる争いの中で、鄭道伝の命運は尽きてしまう。





朝鮮王朝が開国

1388年、高麗王朝は中国大陸の大国・明の相次ぐ侵略に腹をたて、明と戦う決意を固めた。ときの高麗王は、最高の武将である李成桂(イ・ソンゲ)に、10万の大軍を指揮するように命じた。
しかし、李成桂は大国と戦うことに意義を見出せず、任された軍隊を率いて逆に高麗の首都を攻撃。高麗王を追放して最大の権力を手中に収めた。李成桂はお飾りの王をたて、裏では自身の権力基盤を強化していった。
李成桂は特に武将時代から親交の厚かった鄭道伝(チョン・ドジョン)を重用し、国の重臣へと推薦していった。しかし、1392年の春、李成桂は狩猟中に落馬して床に伏せてしまった。すると、高麗王を擁護する鄭夢周(チョン・モンジュ)の一派が巻き返しを図り、鄭道伝を弾劾して朝廷から追い出してしまった。
その狙いが李成桂の失脚だと感じた芳遠(バンウォン=李成桂の五男)は、自ら進んで鄭夢周を殺害した。こうして、最大の敵対勢力を排除した李成桂は、周囲の推戴もあり、1392年に朝鮮王朝を開国し、初代王・太祖(テジョ)となった。




また、芳遠に助けられた鄭道伝は、太祖の右腕として手腕を振るうようになった。
鄭道伝の提案により、朝鮮王朝では高麗時代の国教だった仏教を廃して、新たに儒教を取り入れた。すると鄭道伝は、「朝鮮王朝の建国において自分の功がもっとも大きい」と、公然と自慢するようになった。
こうした過ぎた自尊心が、結局は死につながった。太祖の後継者争いの中、鄭道伝は後に3代王・太宗(テジョン)となる芳遠によって殺害されてしまうのだ。
鄭道伝Fなぜ後継者争いに巻き込まれ、芳遠と対立するようになったのか。
太祖には、高麗の武将時代から2人の妻がいた。1人目は青年時代から彼を支えた神懿(シヌィ)王后。2人目は彼が出世してから妻にした神徳(シンドク)王后だ。
神懿王后との間に生まれた6人の息子は、芳遠をはじめとして太祖の新国家設立の大きな力となった。一方、神徳王后との間に生まれた2人の息子は、まだ幼い子供だった。しかし、1391年に神懿王后が亡くなると、神徳王后は太祖の寵愛を一身に浴びるようになり、彼女は自分が生んだ息子が王になることを望んだ。この考えを、重臣である鄭道伝は強く支持した。彼が目指す政治は君臣たちが中心となる合理的な官僚支配政治であり、強大な私兵を持つ神懿王后の息子たちは脅威だったのだ。




1398年8月、周囲の勧めもあり太祖は、神徳王后から生まれた子を世子(セジャ/王の後継者)にすることに決めた。七男の芳番(バンボン)は生まれつき気性が荒かったため、太祖が指名したのはまだ10歳の八男・芳碩(バンソク)だった。
この決定を神懿王后から生まれた息子たちは、受け入れることはできなかった。特に、鄭夢周を筆頭にした開国反対勢力を除去することで大きな功をなした芳遠の怒りはとても大きかった。
鄭道伝と神徳王后の執拗な根回しによって、彼は軍権を剥奪され、その功績はすべて雲散寸前だった。地位も名誉も奪われた芳遠は、鄭道伝と神徳王后に激しい恨みを抱くようになった。こうして、芳遠は自らの立場を強化するために奔走し、対立構造は決定的となった。
1396年、鄭道伝の後ろ盾である神徳王后が亡くなると、鄭道伝は神懿王后の息子たちを露骨に排除する動きを見せ、両陣営は一触即発の状況となった。そして、1398年8月を迎えた。「朝鮮王朝実録」にはこのときの様子が詳しく描かれている。
鄭道伝は芳碩の異母兄を殺す計画を立てていた。その計画は、「病を患った太祖の容態悪化を理由に王子たちを1カ所に集め、一挙に殺害する」というものだった。




しかし、鄭道伝の計画を芳遠はすでに把握していて、鄭道伝の使いから伝言を受けると、兄弟たちに身の危険を知らせた。そして、自身は計画の実行で油断している鄭道伝の家に向かい、その邸宅に火を放ち逃亡する彼の命を奪った。
さらに芳遠は、異母弟たちの命まで奪い、無欲な二男の芳果(バングァ)を2代王・定宗(チョンジョン)に推薦した。そして、芳遠はほとぼりが冷めたころに自ら3代王・太宗(テジョン)として即位したのである。

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