端宗(タンジョン)の復位を狙って世祖(セジョ)の暗殺を狙った6人は、「死六臣」と呼ばれて庶民から大きな尊敬を集めます。忠義に殉じた高潔な志士というわけです。世祖からすると、端宗がこのまま生きていると死六臣のような事件がまた起こる、と疑心暗鬼になりました。
あまりに非道な王
世祖は端宗を上王から庶民に格下げし、辺境の地に流罪にしてしまいました。さらに、最後に死罪を申し渡します。それは、1456年のことです。端宗は16歳になっていました。
ところが、毒薬をもってきた使者があまりに忍びなくて、端宗になかなか渡せなかったのです。端宗は見るに見かねて、自分で首にひもを巻き、お付きの者に「引っ張れ」と命じて亡くなります。
罪人ということで、死後もその遺体を葬ってはいけないことになっていましたが、心ある有志が「それはあんまりだ」と憤慨してきちんと葬りました。「悲劇の王」という意味で、この端宗ほど悲しみを背負った王は他にいないでしょう。
一方、世祖は権力を万全に固めていきます。朝鮮王朝の法典の整備を進めるなど政治的には業績が多い王ではありますが、なにしろ甥から王位を奪ってその甥を殺しています。非道の王ということで、現代の韓国でも評判が悪いのです。
この世祖の晩年のことです。夢の中に端宗の母親がよく出てきたそうです。端宗の母親は「よくも私の息子を殺したな」と世祖を罵倒し、彼の顔にツバを吐いたとか。すると、世祖は顔に重い皮膚病が出て、それに苦しめられます。
世祖の2人の息子は早世してしまいます。世子だった長男は19歳のときに急死し、1468年に世祖が世を去ったあとに王になった次男の睿宗(イェジョン)も19歳で亡くなります。在位はわずか1年2カ月でした。人々は「世祖が端宗を殺した祟りだ」と噂しましたが、結果的に世祖が様々な災難におそわれたことは事実です。
まさに、因果応報というわけでしょうか。
睿宗が急死したとき、本来なら睿宗の息子が王位を継ぐのが原則なのですが、世祖の正妻だった貞熹(チョンヒ)王后は、先に亡くなった長男の息子に王を継がせようとします。その息子は2人いたのですが、特に二男のほうを指名しました。それが9代王の成宗(ソンジョン)です。
これは異例なことでした。王として亡くなった睿宗の息子が王位を継げなかったからです。貞熹王后にはいろいろと思惑があったのですが、結局は成宗が王位に就いたことで彼女の政治的影響力は非常に大きくなりました。
世祖が世を去っても、今度は妻が権力を握ったというわけです。
9代王の成宗は資質が優れた王で、政治的業績も多いのですが、女性問題で何かとトラブルを起こしています。不運だったのは、最初の妻が10代で病死してしまったことです。王はすぐに再婚するのが常でしたから、成宗は二番目の妻として斉献(チェホン)王后を迎えます。ここから、血塗られた朝鮮王朝の歴史が始まります。
斉献王后は非常に嫉妬深い人で、成宗の側室を呪い殺そうとしました。そういう行為は大罪にあたります。なぜなら、朝鮮王朝時代には、呪術的な儀式で本当に人を呪い殺すことができると信じられていたからです。
結局、斉献王后は成宗の寵愛を失います。それどころか、完全に嫌われてしまいます。以後、成宗は側室の部屋を訪ね歩くだけで、正室の部屋に近づきませんでした。斉献王后の寂しさは募る一方でした。
ただ、時間が過ぎて成宗の心にも変化が生まれました。彼は久々に斉献王后の部屋を訪ねたいと思うようになりました。斉献王后にとっては、再び王の寵愛を受ける好機です。しかし、結果はまるで逆になりました。なんと、斉献王后が成宗の顔を引っかいてしまうという事件が起こりました。もともと感情が激しい女性ではありましたが、こともあろうに王に対してそんな無礼を働き、宮中で大問題になりました。
結局、斉献王后は王宮から追放されて廃妃になります。朝鮮王朝には廃妃になった王妃が何人もいますが、斉献王后はその最初の女性です。
文=康 熙奉(カン ヒボン)