朝鮮王朝を揺るがす大事件が起こったのは1453年10月10日でした。この日、首陽大君(スヤンデグン)が金宗瑞(キム・ジョンソ)の屋敷を急に訪問し、隙をついて金宗瑞を襲って排除しました。
政権が一夜で転覆
首陽大君は端宗(タンジョン)のところに急行し、「金宗瑞が謀反を企てたので倒しました。ほかに謀反に加わった者たちを呼び出したいので王命を発して招集してください」と迫りました。
気弱な端宗は有力な後見人を失い、首陽大君の言いなりなってしまいます。身の危険も感じたのでしょう。このままでは殺されるとおびえた端宗は、「叔父さん、私を生かしてください」と言ったと伝えられています。
結局、端宗は脅しに屈する形で高官を全員呼び出す王命を発し、首陽大君は、1人ずつしか通れない狭い門からみんなが入ってくるように仕向けます。そのうえで、味方はそのまま入れて、反対派はその場で撲殺しました。
こうして一夜にしてクーデターが成功します。朝鮮王朝の歴史の中でも、政権が一夜で転覆した稀有な例ということになります。
政敵をすべて排除した首陽大君は政権の要職を独り占めし、真綿で首をしめるように端宗を追い詰めます。堪えきれなくなった端宗は、1455年についに王位を首陽大君に譲ります。
形の上で端宗は上王に祭り上げられましたが、実権はなきに等しい状態でした。こうして首陽大君は念願の王になって、7代王・世祖(セジョ)となります。
王になった世祖が真っ先にやったことは、自分の即位に貢献した側近たちを政権の要職に就けることでした。
とにかく、暗躍した連中はみな大出世しており、我が世の春を謳歌しました。
世はすっかり世祖の天下になってしまいましたが、彼にこびへつらう人間ばかりではありません。
「やっぱりおかしい。叔父が甥から王座を奪ってはいけない」
そう憤怒する人々がいて、世宗がハングルを創製するときに貢献した成三問(ソン・サムムン)の元に忠臣たちが集まりました。
みんな優秀な高官や学者です。彼らは、王座を奪われた端宗をもう一度王に戻そうと復位運動を起こします。
ちなみに、成三問という名前の由来は、彼が生まれるときに天から「もう生まれるか?」という問い合わせが3回あったからと言われています。
成三問と6人の同志は、ちょうど中国(明)から使節が来ているときにクーデターを起こそうとします。使節を歓待する宴のときに世祖とその側近たちがみんな集まるので、そのときに乗じて殺してしまおうと計画したわけです。
その動きを世祖の側近の韓明澮(ハン・ミョンフェ)が察知します。
また、クーデターを起こそうとした同志の中から裏切り者が出たこともあり、決起は成功しませんでした。
成三問をはじめ有力な高官たちが捕まり、世祖による拷問を受けます。彼らは優秀な人ばかりだったので、世祖は殺すのが惜しくなりました。そこで、「余を王と認めよ。そうすれば許して取り立ててやる」と持ちかけます。
当時の拷問は、火であぶった鉄の棒を股の間に押しつけたりします。その拷問に堪えかねて、成三問たちが世祖のことを「王と認めます」と言ってしまったら、彼らは世間から笑われていたでしょう。忠臣の看板も下ろさなければなりません。
しかし、成三問は決して拷問に屈しませんでした。むしろ、拷問をする役人に向かってこう叫ぶほどでした。
「まだ鉄が生ぬるい。焼きなおしてこい」
拷問に堪えた成三問は、世祖のことを「ナウリ」と呼びました。この「ナウリ」という言葉は今でいえば「旦那さん」くらいの意味で、王に対して言うと、大変な侮辱になります。しかも、成三問は「あんたなんて絶対に王と認めない」と言い放ちます。その瞬間に世祖は逆上し、残虐な方法で成三問たちを処刑しました。
しかし、命を奪われた6人の忠臣は後に「死六臣」として称賛されました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)