朝鮮通信使が来日した年を見てみると、順に1607年、1617年、1624年となっている。この3回の来日は、戦時中に日本に連れて来られた人々を帰国させることが主たる目的になっていて、「刷還使」という役割を担っていた。
使節の構成
4回目の1636年の来日時は、特別な目的がなく、形のうえでは天下泰平のお祝いにやってきたということになった。純粋に両国の友好を確認しあうための使節だったのである。
以後は「朝鮮通信使」という名称が定着する。この場合の「通信」とは「信(まこと)を通じる」という意味である。両国の友好関係に一番大事なのは信頼しあうことであり、それを実現させるためにやってくるのが「朝鮮通信使」という位置づけだった。
以後も定期的に日本を訪れるようになった朝鮮通信使。どのような構成になっていたのだろうか。
主要三役は正使、副使、従事官である。それぞれ、科挙に合格して出世していた朝鮮王朝の高官が務めていた。
随員は製述官、通訳、医師、武官、楽団員、絵師などであり、人数が一番多かったのは膨大な贈答品や用具類を持つ人夫たちであった。この人夫の数が毎回ふくれあがり、一行の総人数は400人から500人ほどになっていた。
これほどの人数が漢陽(ハニャン/朝鮮王朝の都)と江戸の間を往来するのだから、かかる経費は莫大だった。
日本の領土に入ってからは、沿海・沿道の各藩が警護や接待にかかる経費を負担した。各藩としては、最小限に経費を抑えたいのはやまやまだが、他の藩との比較で負けるわけにはいかない。そういう見栄がまさると、巨費をかけて分不相応な接待を繰り返し、回を追うごとに朝鮮通信使に対する饗応は豪華になるばかりだった。
しかし、見返りも多かった。それは、朝鮮通信使が文化使節としての側面を持っていたからだ。
使節の中にいた医師、文人、儒学者、絵師は特に重宝された。
当時の日本の人々から見れば、朝鮮通信使に随行してくる知識人は先進の文化を兼ね備えていた。それだけに、多くの人々が朝鮮通信使の宿舎を訪ね、書画の揮毫を願ったり、漢詩を吟じ合ったり、医学知識を論じ合ったりした。
特に、文書の起草を担う製述官は大変な人気だった。それゆえ、朝鮮王朝でも特別に文才を持った人を製述官に起用するのが常だった。
庶民も朝鮮通信使の来日を心待ちにしていた。異国の風俗に触れる機会がまったくない当時、朝鮮通信使の長い行列は最高の“パレード”でもあったのだ。
よほど感激したのか、日本の絵師は競うように朝鮮通信使の一行を描いている。どれも異国情緒たっぷりだ。そうした絵は庶民の間で飛ぶように売れた。
このように、日本各地で大歓迎を受けた朝鮮通信使。反対に、日本の使節は朝鮮半島でどのように受け入れられたのか。
実は、朝鮮半島の庶民は日本の使節のことをまったく知らなかった。日本の使節は釜山(プサン)に上陸するとそこに留め置かれて、先には一歩も入れてもらえなかったからである。
なぜ釜山止まりだったのか。
朝鮮王朝の側に苦い過去の記憶があったからだ。
実は、豊臣軍が漢陽に向かって一気に攻めあがった道が、室町時代にやってきた日本の使節が通った経路と同じだった。
「二の舞になりたくない」
すでに時代が違うのに、朝鮮王朝は過度に警戒しすぎていた。その結果として、日本の使節は漢陽でなく釜山において朝鮮王朝側の接待を受けることになってしまった。
この点が惜しまれる。
朝鮮王朝と徳川幕府は良好な善隣関係を築いていたのだから、日本の使節を漢陽まで呼び入れて沿道でお披露目したほうがずっと良かった。そうすれば、日本で朝鮮通信使が熱狂的に迎え入れられたように、日本の使節も朝鮮半島で大歓迎されたであろう。それはお互いを知る重要な一歩になったはずだ。
いずれにしても、釜山が日本の使節に開かれた唯一の場所だったが、ここには対馬藩が倭館を造っていた。
この倭館には対馬藩から派遣された500人ほどの人が住んでいた。内訳は、役人、通訳、医師、僧侶、商人、水夫などである。
対馬藩が倭館を造った目的は貿易の活性化だ。その際に得た利益が対馬藩の生命線であり、その権益を独占できたのは徳川幕府を代理して朝鮮外交の実務を引き受けていたからだ。
朝鮮王朝もそれをよく知っていて、対馬藩に定期的な外交団を送っていた。この外交団の規模は小さかった。総勢は100人前後であったという。正式な朝鮮通信使と比べると、はるかに少ない。
しかし、回数がずっと多かった。江戸時代に通算で50回以上も対馬に来ている。朝鮮通信使の来日が12回なので、ほぼ4倍の多さである。朝鮮王朝にとっても、対馬藩は日本外交において絶対不可欠な存在だった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)