徳川幕府が朝鮮王朝との外交関係の再開を申し出ると、朝鮮王朝は最終的に2つの条件を対馬藩に通達した。1つは徳川家康自らが国書を提出して関係修復を願い出ることで、もう1つは、先の戦で王家の陵墓を荒らした犯人を突き出すことだった。
朝鮮王朝側の事情
対馬藩はあせっていた。早く朝鮮王朝と貿易を再開したくて仕方がなかった。
そこでまず、国書を偽造した。家康の正式な国書を待つと長期間かかることを憂慮して、徳川幕府に内緒で国書を勝手に作成してしまったのだ。その偽りの国書は対馬藩から1606年11月に朝鮮王朝に提出されている。
もう1つの条件となっている陵墓荒らしの犯人。これも対馬藩は島内で捕らわれた2人の罪人を犯人に仕立てて、朝鮮王朝に引き渡した。
朝鮮王朝は2人が本当の犯人ではないとすぐにわかっていた。また、国書が偽造されたものであることも察していた。
本来なら、朝鮮王朝が烈火のごとく激怒して関係修復が霧散しても仕方はないのだが、朝鮮王朝はそのまま受け入れた。
たとえニセモノとはいえ、朝鮮王朝が要求したことに日本側は即座に対応している。これは朝鮮王朝としても体面を保てることだった。
さらに、朝鮮王朝として使節を日本に派遣せざるをえない事情があった。戦乱の最中に日本に連行された人々は5万人にのぼると推定されたが、その人たちの家族から「早く連れ戻してほしい」という嘆願書が無数に届いていた。政権としても、日本に渡って交渉せざるをえなかったのである。
後に江戸時代に12回来日することになる朝鮮通信使の第1回目が釜山(プサン)を出発したのは1607年2月のことだった。
正使は呂祐吉(ヨ・ウギル)で使節団の総人数は460余人である。
一行は対馬を経由し、瀬戸内海を通って大坂に上陸した。さらに、京都を経て浜松までやってきた。彼らにとっては、家康に国書を渡すのが一番の目的である。
しかし、浜松で朝鮮通信使を迎えた幕府の役人は、呂祐吉に対して2代将軍・徳川秀忠に国書を渡してほしいと通告してきた。
呂祐吉は首を振った。なにがなんでも家康に渡したいと頑迷に主張した。朝鮮王朝の国王からも「家康に渡すように」と念を押されている。それが果たせなければ国に戻れない、と悲壮な覚悟であった。
しかし、呂祐吉の願いは叶わなかった。
すでに家康は2年前に将軍職を息子の秀忠に譲っていた。隠居の身であれば、朝鮮王朝の正式な国書を受け取るわけにもいかない。
それよりも家康は、秀忠を朝鮮王朝との関係修復を成し遂げた当事者にすることで、息子の権威を高めようとしたのである。
その思惑を呂祐吉は知る由もなかったが、彼には日本に連れてこられた人々を帰国させるという大事業が控えていた。その際には徳川幕府の協力が不可欠である。そこで呂祐吉は憤慨する気持ちをなんとか抑えて、幕府の言い分を承諾した。
呂祐吉たちは1607年5月に江戸城で秀忠に謁見した。その際に朝鮮王朝の国書を徳川幕府に差し出したのだが、その国書も実は対馬藩が密かに書き直したものであった。
なにしろ、朝鮮王朝の国書は徳川家康が出した国書の返書という形式になっている。書き出しは返書を意味する「奉復」になっているが、そのまま秀忠が受け取ると、対馬藩が勝手に国書を出していたことが露顕してしまう。そこで対馬藩は朝鮮王朝の国書の書き出しを「奉復」から「奉書」に書き直した。それ以外にも数多くの個所で書き直しが行なわれている。
そうした裏工作があったとはいえ、朝鮮王朝と徳川幕府は両国の交流促進で合意した。ここに、戦乱終結からわずか9年で国交が回復されたのである。
しかも、朝鮮王朝は日本に連れ去られた人々の送還を徳川幕府に正式に約束させた。実際には、朝鮮通信使が往来する道中に自ら名乗り出てきた人も多く、最終的に1400人ほどの人たちが呂祐吉たちと一緒に帰国している。第1回目の使節としては成果も十分であった。
呂祐吉は江戸からの帰路で家康と面会している。
駿府で家康が朝鮮通信使の一行を大いに歓待したのである。
「今後は両国の和平を大いに望みます」
家康は上機嫌でそう語った。
以後、朝鮮王朝と徳川幕府の間で信頼に基づく善隣関係が始まった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)