王朝盛衰史15「正祖は貞純王后を処罰しなかった」

1762年に米びつの中で餓死した思悼世子(サドセジャ)には10歳の息子がいて、英祖が1776年に亡くなったときに王位を継いでいます。それが22代王の正祖(チョンジョ)です。ドラマ『イ・サン』の主人公になっている王です。

写真=植村誠




「思悼世子の子なり」

正祖は24歳で王になったのですが、即位後の第一声が「朝鮮王朝実録」に詳しく出ています。そのとき正祖は居並ぶ臣下を前にしてこう言いました。
「嗚呼!寡人は思悼世子の子なり」
この「寡人」というのは、王が自分のことをいうときの言葉です。韓国語では「クァイン」と発音します。
正祖が「嗚呼!寡人は思悼世子の子なり」と言ったとき、周りの重臣たちはこぞって恐れおののきました。その理由は、正祖が父の死に関わった者たちを絶対に許さない、という意思を示したと思ったからです。
実は、思悼世子は処罰を受けて米びつの中で餓死していますので、いわば罪人扱いであり、正祖が思悼世子の息子のままでは王位を継承できません。
そこで、実は正祖は、思悼世子の兄で早世していた孝章(ヒョジャン)の養子になっていました。




形のうえで正祖の父は孝章なのです。
ところが、王になった途端に、正祖ははっきりと思悼世子の息子であることを強く宣言しました。
その強い主張は「粛清の嵐」を予感させました。
結果は、その通りになります。
思悼世子を陥れた人たちが次々に厳罰になりました。その中には、亡き父の妹や母の叔父も含まれています。これを見ても、思悼世子の身内にいかに敵対勢力がいたかがわかります。
正祖が処罰すべきかどうかで悩んだ相手が祖母でした。この祖母というのは、英祖の二番目の正妻だった貞純(チョンスン)王后のことです。
英祖は最初の妻だった貞聖(チョンソン)王后が亡くなったあとに51歳も若い妻を迎えていて、それが貞純王后です。
彼女は思悼世子を追い詰めた黒幕の一人になっていました。
正祖としても、ぜひとも父の怨みを晴らしたかったでしょうが、儒教社会では祖母を簡単には処罰できません。




「孝」にそむく行為の最たるものだからです。
王になってすぐにそういうことをしてしまえば、一気に人望を失ってしまったでしょう。しかも、貞純王后も断食をして処罰を逃れようとしていました。そのしたたかさは並ではありません。
「父親の無念を晴らすために処罰したほうがいいのか、それとも長幼の序を守って不問にしたほうがいいのか」
正祖は悩みますが、結局は処罰しませんでした。これが、正祖にとって命取りになってしまうのですが……。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

王朝盛衰史1「李成桂が太祖として即位!」

王朝盛衰史2「王朝の基盤を作った太宗」

王朝盛衰史16「正祖の改革をつぶした貞純王后」



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