パク・ボゴムが『雲が描いた月明かり』で演じた若きイ・ヨン。この人物は歴史上では孝明(ヒョミョン)世子として有名だ。果たして、どんな人生を送ったのか。その栄光と終焉を追ってみよう。
聡明だった孝明世子
23代王・純祖(スンジョ)の長男として、1809年に生まれた孝明世子。幼くしてとても聡明だった彼は、5歳のときに正式な後継者である世子(セジャ)となった。
そんな彼の母親の純元(スヌォン)王后は、とても強気な女性で、夫の性格が気弱だったのをいいことに、自分の実家である安東(アンドン)・金氏の一族に権力をもたらすなど、積極的にものごとを進めていった。
一方、孝明世子は8歳のときに最高学府の成均館(ソンギュングァン)に入学し、10歳で成人男性と認められた。
朝鮮王朝では世子は10歳過ぎに結婚することが多かった。孝明世子は豊壌(プンヤン)・趙氏の高官・趙萬永(チョ・マニョン)の娘を嫁に迎えた。それにより、豊壌・趙氏の勢力は一気に拡大していった。
1827年、純祖は成長した孝明世子に代理聴政(テリチョンジョン/王の代理で政治を仕切ること)をさせようとした。孝明世子は、18歳という年齢を理由に一度は断るが、最終的に王命を受けて代理聴政をすることになった。
政治の表舞台に立った孝明世子は、人事面で力を発揮した。母親の純元王后の力で要職を安東・金氏の一族が占めていたが、孝明世子は豊壌・趙氏の一族を重用することで、新しい人材を積極的に登用していった。さらに、戸籍法を整備して刑罰の改善を行なうなど、統治においても見事に力を発揮した。
しかし、1830年の閏4月22日に孝明世子が喀血(かっけつ)したことで、深刻な事態となった。
漢方薬に詳しい官僚も加えた王家の治療チームによって、孝明世子の病状はいったん落ち着いた。しかし、5月5日に再び病状が急変して危篤となり、5月6日に21歳で世を去った。
数多くの才能を持っていた孝明世子。もし彼が王になっていれば、朝鮮王朝は大きな変化を見せていたはずなのだが……。