518年という長い歴史を誇った朝鮮王朝だが、これほど“長寿”だったのは、厳格な身分制度と絶対的な王権によるところが大きい。こうした体制は初代王の太祖(テジョ)がつくり始め、3代王・太宗(テジョン)の治世時代に基盤が確立されていった。さらに、朝鮮王朝を磐石にしたのが4代王の世宗(セジョン)である。
世孫の誕生を熱望
1418年、王位に就いた世宗は、朝鮮王朝の文化をはぐくみ、生活技術の向上に尽くした。
彼は32年もの長い間、朝鮮王朝の王として手腕を振るった。
最大の業績は、民族独自の文字の「ハングル」を創製したことだ。この快挙によって、彼は朝鮮王朝最高の聖君と称賛されている。
それほど有能な王だった世宗だが、彼にも一つだけ悩みがあった。それは長男である世子(セジャ/王の正式な後継者のこと)が病弱で、二男が王位に執着をもっていたことだった。
世宗は自分の死後、王位をめぐる争いが起きないように、早くから世子に結婚を勧めた。世孫(セソン/世子の息子で、世子の次に王位継承権がある)の誕生を心待ちにしたのだった。
そこで、世子は13歳のときに4つ年上の金氏(キムシ)と結婚した。
しかし、世宗の思惑とは裏腹に、若い世子は金氏を愛することができず、彼女に近づくことすらしなかった。
金氏は焦りを隠せなかった。
「どうにかして世子様との子供を産まなければ……」
追いつめられた金氏は、世子を振り向かせようと、蛇やコウモリを部分的に干して粉末にしたものを持ち歩くようになる。何かのまじないなのだろうが、そんなことに頼るほど、金氏は正気ではなかったのだ。
金氏の奇行はすぐに世宗の耳に入った。
結局、彼女は実家に帰らされた。
金氏の父は、娘が戻ってきたことを恥じて、娘を殺し自らの命も絶ってしまった。
金氏を廃位させた世宗は、次に奉氏(ポンシ)を世子の妻として迎え入れた。ところが、奉氏は気が強すぎて、物静かな世子との折り合いが悪かった。
世子は金氏同様に奉氏を遠ざけていく。奉氏は寂しさをまぎらわせようと、宮中で荒れた生活を始めた。
奉氏は浴びるように酒を飲み、ついには世話役の宮女たちと同性愛にふけるようになってしまった。
噂を耳にした世宗は、「世子の妻にふさわしくない不貞」とあきれ果てた。こうして金氏に続き奉氏もまた王宮から追放された。
うまくいかない結婚が続き、世子はもはや新しい嫁を持つことに乗り気でなかった。世宗もそれをとがめることはせず、世子に3人の側室をもたせた。すると、世子はその中で権氏(クォンシ)が気に入り、愛を深めていった。
1441年、権氏との間に念願の長男が生まれた。
こうして世宗は念願の世孫を持つことができた。
しかし、長男の出産は難産となり、権氏は出産後数日で亡くなってしまう。彼女は後に顕徳(ヒョントク)王后として王妃に列せられた。
1450年、世宗が亡くなり世子が5代王・文宗(ムンジョン)として即位した。しかし、わずか2年で急死し、長男が11歳で即位した。
それが6代王・端宗(タンジョン)だ。
この幼い国王の運命も悲劇的なものだった。その悲劇をもたらしたのが世宗の二男で文宗の弟の世祖(セジョ)であった。彼は強引に端宗から王位を奪い、さらには端宗の命を奪ってしまった。
すでに亡くなっていたが、世宗が草葉の蔭でどれほど悲しんだことだろうか。
文=康 熙奉(カン ヒボン)