貞明公主が大地主になった理由は?

韓国時代劇『華政(ファジョン)』の主人公になっている貞明(チョンミョン)公主(コンジュ)。彼女は歴史的に「まれなほどの大地主になった王女」として知られる。どのようにして、貞明公主は広大な土地を所有することになったのだろうか。

画像=MBC




晴れて自由になれる日

貞明公主は、14代王・宣祖(ソンジョ)と仁穆(インモク)王后との間に1603年に生まれた。
彼女の異母兄が光海君(クァンヘグン)である。この光海君は、1608年に15代王になったあと、王位を安定させるためという名目で貞明公主の弟であった永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺している。
しかも、仁穆王后と貞明公主は離宮に幽閉されてしまい、2人は非常に辛い日々を耐えなければならなかった。
1623年、綾陽君(ヌンヤングン)がクーデターを起こして光海君を廃位にした。仁穆王后と貞明公主にしてみれば、晴れて自由になれる日がようやく来たのである。
1623年、綾陽君が即位して16代王・仁祖(インジョ)となった。
このときに20歳になっていた貞明公主は、幽閉されていたために婚期が遅れてしまっていた。




仁穆王后は娘の結婚を急がせ、ついに貞明公主は高官の息子の洪柱元(ホン・ジュウォン)とめでたく結婚に至った。
そして、王宮の外に豪華な屋敷を構えることができた。
ここまでは、王女として当然の待遇であったのだが、貞明公主の場合は、仁祖からさらなる贈り物があった。
それが広大な土地であった。
なぜ、仁祖はそこまで配慮したのか。
仁祖が貞明公主に広大な土地を与えたのは、ひとえに、仁穆王后のご機嫌を取るためであった。
なぜなら、仁祖はクーデターで光海君から王位を奪ったのだが、野望の実現のためではなく政治の不正をただすために光海君を倒したことを証明しないと、国王になっても正統性を発揮することができなかった。
つまり、仁祖にしてみれば、反乱のように行なったクーデターに相応の大義名分が必要だったのだ。




その大義名分にお墨付きを与えてくれる人は誰か。
それがまさに仁穆王后だった。
なにしろ、仁穆王后は、光海君の父であり仁祖の祖父であった宣祖の正室だったのだから……。
仁穆王后は王族の最長老女性であり、彼女が与えてくれるお墨付きこそが最高の大義名分になった。
それゆえ、仁祖は仁穆王后に尽くす必要があり、その最大の形が仁穆王后の娘に広大な土地を与えることだった。
最終的に貞明公主が所有した土地は、とてつもない広さになった。
たとえば、慶尚道(キョンサンド)に持った土地は5000万坪にのぼると推定されるし、全羅道(チョルラド)でもいくつかの島をそっくり所有していた。
貞明公主は1685年に82歳で亡くなったが、彼女が残した土地のおかげで、貞明公主の子孫たちはとても裕福な暮らしをすることができた。
まさに夢のような話だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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