王朝盛衰史1「李成桂が太祖として即位!」

朝鮮王朝は1392年に建国されました。初代王・太祖(テジョ)となったのが李成桂(イ・ソンゲ)です。彼は、高麗王朝の武将でしたが、最高実力者となって高麗王を追放して自ら新しい王朝を開きました。

写真=植村誠




8人の息子

朝鮮王朝を作った太祖には妻が2人いましたが、故郷にいたのが神懿(シヌィ)王后です。太祖を若いときから支えた「糟糠の妻」で、6人の息子をもうけました。しかし、神懿王后は朝鮮王朝が創設される1年前に亡くなっています。
結局、神懿王后は実際には王妃になっていないのですが、その功績を讃えられて「最初の王妃」という扱いを受けています。
太祖が若いときを過ごした高麗王朝時代は一夫多妻制で、出世するような男は都にもう1人の妻を持つ風潮がありました。それを「京妻」と言いましたが、太祖の京妻が神徳(シンドク)王后でした。
一般的には、故郷にいる妻より京妻は若いのですが、神徳王后も神懿王后より19歳も若く、大変な美人だったと言われています。この神徳王后と太祖の間には息子が2人いました。合計すると、太祖には合計で8人の息子がいました。
1392年、朝鮮王朝を創設した太祖は、すぐに後継者を指名する必要に迫られました。王朝ができたときすでに57歳。当時としてはかなり高齢で、早めに世子(セジャ/国王の正式な後継者)を決めなければならなかったのです。




最初の妻である神懿王后との間に生まれた子供はみな成人していて、なおかつ朝鮮王朝の創設に貢献しているので、誰もがその中から選ばれると思っていました。
特に注目すべき存在は五男の芳遠(バンウォン)で、太祖が敵対勢力を排除して王になる上で最も貢献した息子です。芳遠は当然、「次の王には自分が指名される」と確信していました。
ところが、太祖が指名したのは神徳王后が産んだ八男の芳碩(バンソク)で、まだ10歳でした。最有力候補だった芳遠は25歳ですから、どう考えても騒動になります。王朝が創設早々に崩壊する危険性があるので、王の後継者は慎重に選ばなければいけないところなのですが……。
太祖がこんな決定をした背後には、神徳王后の存在があります。彼女にあまりに懇願されて、太祖も判断を誤ったものと思われます。彼は自ら、危険な火種を作ってしまったわけです。
朝鮮王朝創設の際に、太祖が一番頼った側近が儒教学者の鄭道伝(チョン・ドジョン)です。彼は、制度や組織をまとめる活躍をした第一の功臣でした。




この鄭道伝は芳碩の後見人でもあり、母親である神徳王后から「くれぐれも息子をよろしく」と頼りにされていました。
神徳王后が普通に長生きしていれば間違いなく芳碩が2代王になったはずです。
ところが、神徳王后は1396年に亡くなり、芳碩は後ろ盾を失ってしまいました。その隙を見逃さず、ここぞと出てきたのが武闘派の芳遠です。
彼は1398年に一気に異母弟たちを排除するクーデターを起こしますが、それには伏線があります。最初に行動を起こしたのは鄭道伝のほうでした。彼は、王が病気だからみんな王宮に集まれという伝令を王子たちに送ります。そうやって集めた神懿王后の息子たちを一網打尽で排除するという策略でした。
それを見抜いた芳遠は逆に切り返し、鄭道伝を殺しました。
芳遠はさらに、神徳王后が産んだ異母弟の2人を殺害します。特に八男の芳碩は本来は王の後継者だったわけですから、父である太祖の怒りは尋常ではなかったのですが、すでに芳遠は王朝の最高実力者になっていて、さしもの初代王も芳遠を認めざるをえませんでした。この政変の結果、1398年に病身の李成桂は退位しました。




ここからが芳遠の賢いところなのですが、彼は五男の自分がいきなり王になると波風が立ちすぎるので、兄の芳果(バングァ/太祖の二男)を2代王に推挙し、自分は後ろから王を操ろうと考えました。
こうして、芳果が2代王・定宗(チョンジョン)になりました。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

王朝盛衰史2「王朝の基盤を作った太宗」

王朝盛衰史3「世祖と『死六臣』の対決」

王朝盛衰史4「悲劇の国王・端宗」




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