百済(ペクチェ)の聖王(ソンワン)の使者が来日して、欽明天皇に釈迦仏の金銅像と経論などを贈呈した。仏教の受容をめぐって、政権を支える2大勢力が対立した。
捨てられた仏像
欽明天皇は蘇我氏と物部氏の間をとりもちながらも、やや蘇我氏寄りの判断をした。
「稲目に授けるゆえ、試しに拝んでみたらどうか」
蘇我稲目(そがのいなめ)は内心ほくそえみ、仰々しく平伏した。
屋敷に戻った蘇我稲目は、金銅像を安置して、百済の使者から教わったとおりに拝み続けた。
後には小さな寺まで造り、蘇我稲目は仏道を究めようとした。
折り悪く、疫病がはやって若死にする者が続出した。
批判の声を強める物部尾輿(もののべのおこし)は、欽明天皇に上訴した。
「臣が反対しましたが、聞き入れられず、世に病死が増えました。あの仏を早めに捨てて、世を平穏にすべきではないでしょうか」
欽明天皇も賛意を示した。
物部尾輿はすぐに蘇我稲目から仏像を取り上げて、難波(なにわ)の堀江に捨てた。さらには、見せしめとして寺に火をつけた。
不思議なことが起こった。
晴天で無風だったのに、宮の大殿に火事が起きた。
仏がお怒りになったのだろうか。
それから半年ほど後のことである。
河内の国から報告があった。
「泉郡の海中から、仏教の礼拝時に奏でるような音がしてきます」
欽明天皇は使者を送って調べさせた。
すると、海中から光り輝くクスノキが発見された。
欽明天皇はそのクスノキで仏像二体を造らせた。物部氏の猛反対にもかかわらず、仏教を邪神とみなしていないのだ。何よりも、当時の大陸で普遍的に信仰されているという事実を重んじた。
結局、蘇我氏と物部氏の間で起こった仏教の受容をめぐる対立は、数10年も続いた。つまり、ヤマト政権の主導権をめぐる争いの中で、仏教が一番の争点になったのだ。
やがて、治世は欽明天皇、敏達天皇、用明天皇へと移った。
この用明天皇が在位2年足らずで世を去ってから、その後継者をめぐって蘇我氏と物部氏の対立が一層激しくなった。
蘇我馬子(そがのうまこ)は、蘇我氏の血を引く王族を王位につけようと先手を打った。窮地に陥った物部守屋(もののべのもりや)は、本拠地の河内にいったん退いて、次の決戦に備えた。
攻める蘇我氏、守る物部氏。
物部守屋は師弟と兵士を集めて稲で砦を築いて防御を固めた。そのうえで、上から蘇我軍をめがけて激しく矢を射った。雨のように降ってくる矢におそれをなして、蘇我軍は三度も退却せざるをえなかった。
蘇我氏の側についていた厩戸(うまやど)皇子は、後ろから戦況を見ていて思わずつぶやいた。
「この戦は負けるかもしれない。願をかけなければ……」
厩戸皇子は霊木と称される木を切って四天王の像を即興で造り、束髪の上に載せた。
「この戦、ぜひ私どもに勝たせてください。願いが叶いましたら、かならず寺塔を建てます」
一心に祈る厩戸皇子。その姿を見ていたら、蘇我馬子も、仏に祈らずにはいられなかった。
「我らをお守りください。勝たせてくださったら、寺塔を建てて三宝を広めます」
蘇我馬子は祈りを終えると、作戦の変更を同志に伝えた。
「守屋1人だけを徹底的に狙え」
その意をくんだ配下の者たちが、木にのぼって陣頭指揮を取っている物部守屋を執拗に狙った。
配下の1人が弓の達人だった。彼は、木々の間を狙って物部守屋に矢を命中させるという離れ業を演じた。
大将が死んで物部軍は総崩れになった。敗残兵は命ほしさに散り散りとなって逃げていった。
物部氏は滅び、蘇我氏の天下となった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)