歴史の中の仕事人3「武官の李舜臣(イ・スンシン)」

朝鮮王朝を代表する武官と言えば、最も有名なのが李舜臣(イ・スンシン/1545年~1598年)だ。彼は豊臣軍が朝鮮出兵をしたときに大活躍した。今でも韓国の人がもっとも尊敬する偉人が李舜臣なのである。





新しい戦闘船の開発

もともと、朝鮮王朝は「文」に傾倒した国だった。そのため、文官は武官を馬鹿にしていて、権力にも大きな差があった。
そんな情勢の中、李舜臣は1581年に武官として仕官した。
武官になってからの李舜臣の出世は早かった。彼は着任早々、北方の異民族制圧に大きな戦果をあげて、最も有能な将軍という異名を轟かせた。
李舜臣が着々と武名をあげている頃、朝鮮王朝には「豊臣軍が攻めてくる」という噂が流れ国政はとても緊張していた。朝廷では有能な将軍を求めるようになり、北方地方にいた李舜臣にもその声は届いた。
こうして李舜臣は全羅道(チョルラド/朝鮮半島西南部の地方)の水軍守備隊長に任命された。これは実に異例の昇進であった。
しかし、内陸生まれだった李舜臣にとって、海での兵法は苦手だった。彼は兵たちと共に海戦を学びながら、戦の訓練を丹念に行ない有事に備えた。




李舜臣がもっとも力を注いだのが新しい戦闘船の開発である。そして誕生したのが「亀甲船」だ。
亀甲船は甲板が固い板で覆われていた。その上に無数の刃が設置されており、前後左右に強力な大砲を装備していた。この戦闘船が、後に李舜臣の勝利に大きく貢献する。
1592年、朝鮮出兵の幕が開いた。
朝鮮王朝は豊臣軍の突然の襲撃に、なすすべもなくやられていく。絶望的な戦況の中で、唯一の光明は亀甲船を指揮する李舜臣の水軍だった。李舜臣は連戦連勝で豊臣軍の船を撃退した。
こうした勝利の報告を聞いて当時の王だった宣祖(ソンジョ)はようやく落ち着きを取り戻し、李舜臣に三道(全羅道、忠清道〔チュンチョンド〕、慶尚道〔キョンサンド〕の総称)の水軍統制使の役職を与えた。
水軍統制使とは現在で言う海軍の総司令官のことだ。
李舜臣の活躍によって朝鮮王朝側は劣勢を挽回し、戦は長期戦に突入した。しかし、こうした国の大事であっても奸臣たちは醜い権力争いを繰り広げ、李舜臣はそれに巻き込まれてしまう。




彼は「豊臣軍と内通している」という謀略をかけられて逮捕されてしまった。いわば味方から矢を放たれたのだ。
有能な司令官である李舜臣を失った朝鮮王朝の水軍は、これまでの連勝が嘘のように敗北を重ねていく。
後のない奸臣たちは手の平を返すと、李舜臣を再び水軍統制使に就けた。しかし、度重なる敗北によって彼の手に残されたのはわずか12隻の船だけだった。しかし、持ち前の創意と工夫で李舜臣は水軍を立て直していく。
1598年8月、少ない兵力の中で懸命に戦い続ける李舜臣の下に、豊臣秀吉死亡の情報が入ってきた。
豊臣軍が撤退することを察知した李舜臣は11月に総攻撃を開始した。
この戦闘によって、豊臣軍の多くの軍艦が沈没した。
圧倒的な勝利に沸き立つ王朝軍。しかし、最前線に立って指揮していた李舜臣に流れ弾が襲い掛かった。自身の死を覚悟した李舜臣は、自分のそばに息子を呼び寄せて次のように語った。




「私の死を知れば士気が下がる。盾で私の姿を隠してお前たちが残りの指揮を取れ」
李舜臣は死ぬまで戦い続けたまさに「不滅の将軍」だった……。
朝鮮王朝の危機を救った李舜臣。今もソウルの中心部には彼の銅像が設置され、人々を見守っている。

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