貧しい家庭に生まれた張禧嬪(チャン・ヒビン)〔1659年~1701年〕は、ずっと不遇の生活を送っていたが、偶然にも宮廷で働けるようになった。
張禧嬪の野望
王妃たちの世話をしながら、出世を夢見る張禧嬪。美しい容姿を持つ彼女を一目見た粛宗(スクチョン)は、すぐに気に入って、自分の側室にした。
当時、粛宗には正妻の他に側室も多かったが、いつになっても男子が生まれなかった。
これは張禧嬪にとってまたとない好機だった。息子を産めたら次の王の母になれるのが明らかなのだ。1688年、張禧嬪は念願の男子を出産した。
30歳になろうとする粛宗にとって、初めての息子を得た喜びはひとしおであり、彼は1690年に張禧嬪との間に生まれた息子を後継者に指名した。
王の寵愛を一身に集めた張禧嬪は、粛宗の気持ちを巧みに誘導し、正室だった仁顕(イニョン)王后を庶民に格下げすることに成功した。こうして張禧嬪は粛宗の正室となった。
張禧嬪は日に日に増長していく。彼女は自分の一族たちを高官に迎え、やりたい放題に過ごした。
しかし、張禧嬪の時代は長く続かなかった。
粛宗は新たに後宮に入った淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)に愛情を注ぐようになったのだ。張禧嬪は危機感を抱き、彼女に陰湿な嫌がらせを始めた。そうした矢先に、淑嬪・崔氏は粛宗の子供(後の英祖〔ヨンジョ〕)を宿した。
淑嬪・崔氏が粛宗の子を産んだら自分の立場がなくなると思った張禧嬪は、相手の妊娠に常に神経をとがらせていた。そうした様子は宮中でも噂になり、「張禧嬪が淑嬪・崔氏を毒殺しようとしている」という噂まで飛び交うようになった。
粛宗は、傲慢に振る舞い黒い噂の絶えない張禧嬪に不信感を抱くようになった。彼は庶民に降格させた仁顕王后を復位させて、張禧嬪を正室から側室に戻した。この決定に憤った張禧嬪は、自分の侍女たちに命じて仁顕王后の寝室に穴を開け、彼女の動向を常に探った。また、仁顕王后を呪う儀式を続けた。
1700年、仁顕王后は原因不明の病に倒れ、翌年には亡くなってしまう。張禧嬪は王妃に返り咲けると思ったのだが、彼女の行いは淑嬪・崔氏によって粛宗に伝えられた。怒った粛宗は張禧嬪の弁解に耳を傾けず死薬を与えた。こうして、己の野心のために宮中を混乱させた張禧嬪は世を恨みながら息を引き取った。
張禧嬪が残した息子は20代王・景宗(キョンジョン)になるが、宮中では彼を王と認めない勢力まで生まれてしまう。それほど張禧嬪は死んだ後も忌み嫌われた。