936年に朝鮮半島を統一した高麗王朝だったが、当初は地方豪族が政治に介入して王権が混乱することが多かった。そんな中で即位したのが4代王・光宗(クァンジョン/925-975年)だった。彼は韓国ドラマ『麗<レイ>~花萌ゆる8人の皇子たち~』にも登場する王で、ドラマの中ではイ・ジュンギが演じていた。
大胆な政治改革
光宗が即位したのは949年だが、それまでに高麗王朝では混乱が続いた。
なにしろ、2代王・恵宗(ヘジョン)は、実力派の定宗(チョンジョン)によってわずか2年で王位を追われたが、新しい王となった定宗も即位4年で病に倒れてしまった。結局、定宗の実弟だった光宗が王位を継いだのである。
光宗は王としての威厳があった。聡明で容姿にも優れていた。
彼は大胆な政治改革を試みた。
その象徴が奴婢の解放だった。
端的にいえば、奴婢であっても良民出身であれば、かつての立場を回復させる法律を作ったのだ。
当時の奴婢は、戦乱時に捕虜になってしまった良民が多かった。彼らは、有力豪族たちの個人資産であり私兵でもあった。
しかし、光宗は彼らを解放させたのである。当然ながら、有力豪族の反発があった。それでも、光宗はひるまなかった。非常に意志が強い王だった。
光宗が新たに実施した制度が「科挙」だった。
優秀な人材を試験で選抜して高等官僚に就かせるというこの制度は、既得権にあぐらをかいていた建国時の功臣や豪族を排除するうえで効果的だった。結局、科挙は高麗王朝だけでなく、朝鮮王朝でも重用された。
それもすべて光宗の時代に始まったのだ。
しかし、既得権を奪われた者たちは反発を強めた。すると、光宗は逆らう豪族を問答無用で投獄した。結果的に豪族たちの力が弱まり、光宗は政治基盤を安定させることができるようになった。
こうした手腕が評価されて、光宗は「名君」と呼ばれた。
しかし、光宗は成功体験に酔ってしまった。それは、歯向かう者を大々的に粛清するという結果を生んだ。
これは、やりすぎだった。光宗の治世の後半期には各地で反乱が相次いだ。
「なぜ反乱が起きるのか。民のための政治を行なっているのに……」
王としての責任感を全うしようとする光宗の志は高かったが、あまりに方法論が強行すぎたのである。
最終的に光宗は、亡き兄・定宗の息子を手にかけ、自分の1人息子にまで疑いの眼を向けるようになってしまった。
こうなると、もはや「裸の王様」であった。離れていった人々の心は、再び帰ってこなかった。
晩年はさぞかし、心苦しい日々が多かったことだろう。
歴史的にみると、光宗には2つの顔があった。
王権を強化して政治改革を断行した名君……。
逆らう者を粛清し続けた恐怖政治の主……。
果たして、どちらが本当の光宗であったのか。
おそらく、両方とも光宗の本性だったに違いない。あまりに能力が高すぎるがゆえに、光宗は「唯我独尊」で行くしかなかったのだ。彼に悔いがあるとすれば、自分を制御できなかったことではないのか。
そういう意味で、光宗は孤高の王であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)