豊臣軍との戦争は、朝鮮王朝の王の後継者問題にも影響を与えます。14代王・宣祖(ソンジョ)の息子が戦乱の中で明暗を分けたのです。長男の臨海君(イメグン)は加藤清正の捕虜になってしまいましたが、次男の光海君(クァンヘグン)は地方に行って民兵を整備するなど手柄を立て、リーダーシップを発揮して活躍します。
待望の嫡男
儒教社会では、王であれ庶民であれ長男が家を継ぐのが原則で、臨海君は王になれる権利があったのですが、彼は釈放後も捕虜になったことを恥じて酒びたりになり、荒れた日々をおくります。
弟の光海君のほうが出来がいいということになり、結局は宣祖も光海君を後継者に指名します。ただし、ことはそれで納まりませんでした。
実は、宣祖は庶子の出身です。わかりやすく言えば、側室の子供なのです。それまでの王はすべて正室が産んだ息子でしたので、宣祖は初めての庶子出身の王ということになります。このことを宣祖はずっと気にかけていました。
その宣祖も正室との間で子供をつくることがなかなかできませんでした。彼には懿仁(ウィイン)王后という妻がいましたが、彼女は息子を産めないままに1600年に亡くなりました。
王が妻に先立たれてずっと1人でいるわけにもいきませんから、宣祖は二番目の妻として仁穆(インモク)王后を迎えます。彼女は1584年生まれで宣祖より32歳も下でした。
やはり若い妻をめとったことが良かったのでしょう。1606年に永昌(ヨンチャン)大君(デグン)という息子が生まれました。待望の嫡男です。これで宣祖が長生きしていれば、永昌大君が光海君に代わって王になったと思われますが、1608年に宣祖は世を去ります。このとき、永昌大君はわずか2歳でした。さすがに、その幼さで王になるわけにもいきません。
1608年、予定どおり光海君が王になります。この光海君の一派は、批判的だということで兄の臨海君を殺害。異母弟の永昌大君も警戒し、幽閉後に残虐な方法で殺してしまいます。
けれど、政治的な改革を急すぎたことで、既得権を持っている人たちから光海君は危険な王とみなされました。また、兄弟たちを殺したことでかなり恨まれていましたし、仁穆王后を処罰したことで反感を買っていました。
1623年、クーデターが起きます。リーダーになったのは綾陽君(ヌンヤングン)という28歳の王族で、宣祖の孫にあたります。自分の弟が光海君の側近によって殺された怨みもあり、同じく光海君に怨みを持つ同志を集めて決起しました。
ただし、怨みだけでクーデターを起こすと、大義名分がたちません。そこで、綾陽君がかついだのが、幽閉されていた仁穆王后です。
クーデターを起こした綾陽君の仲間が仁穆王后に挨拶に行ったときのことが「朝鮮王朝実録」に詳しく出ています。それによると、仁穆王后は声を荒らげて次のように言ったそうです。
「幽閉されて10数年、今まで誰一人見舞いに来なかったのに、なぜ今頃になって来るのか」
仁穆王后の怒りももっともです。今まで周囲から冷たくされて、それが我慢ならなかったのでしょう。
クーデター軍としては、ぜがひでも仁穆王后をかつぎたいので、それまでの無礼を必死に詫びます。そのうえで、機嫌を直してもらって「光海君を撃て」と号令してほしいわけです。その願いが通じて、仁穆王后も承諾します。
クーデターは成功しました。仁穆王后は幽閉されていた場所から王宮に堂々と迎えられますが、“10数年間、誰も見舞いに来なかった”と文句を言っていた人が一転して、「憎き光海君を斬首せよ」と命令します。我が子を殺した怨みを晴らしたいのは当然のことです。
しかし、いくら追放したといっても、先の王を殺すというのは後世で大変な批判を浴びることが目に見えています。綾陽君も「先王を殺すことはできません」と何度も言うのですが、仁穆王后は納得しません。「光海君を殺せ」の一点張りです。
綾陽君は最後まで抵抗して、光海君を殺さず、島流しにしました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)