長い朝鮮半島の歴史を見ると、女性が政権の中枢で活躍したのは非常に限定的で、歴史の中心はやはり男性だった。その中でも歴史を大きく動かす存在感を示した女性もいる。その最たる例が新羅(シルラ)時代の善徳(ソンドク)女王と、高麗(コリョ)時代の奇皇后ではないだろうか。
強い霊感の持ち主
新羅には3人の女王がいたが、初めて女王になったのが善徳女王だった。彼女は新羅26代王の真平王(チンピョンワン)の長女として生まれ、小さいころからとても頭がよかった。
真平王が亡くなり、632年に善徳女王が即位した。勘が鋭かった彼女は、人が気づかないようなことを察する霊感も持っていた。
その霊感が国を救ったことがある。それは、王宮の西側にある玉門池に大量のヒキガエルが現れて、けたたましい鳴き声をあげたときのことだ。
善徳女王はそれを見てこう言った。
「ヒキガエルの目が完全に怒っている。あれは兵士の相を表している」
さらに、善徳女王は霊感によってあることに気づいた。そのとき彼女の頭に浮かんだのは、新羅の領土の端にある玉門谷だった。すかさず善徳女王は断言した。
「ヒキガエルの目でわかった。玉門谷に多くの敵が潜んでいるはず」
その言葉に反応して、多くの新羅の兵が玉門谷へ駆けつけてみると、実際に、敵対する百済(ペクチェ)の500人の兵士たちが谷に潜んでいた。彼らは密かに新羅を攻めるつもりだったのだ。敵を見つけた新羅軍は、大人数で百済軍を急襲して、一気に退散させた。まさに善徳女王の霊感が新羅のピンチを救ったのである。
善徳女王は民衆のことをいつも考え、その生活の安定に尽力した。作物の出来が悪いときには、民衆の税金を免除するという政策を実施したこともある。そのため、誰からも大変慕われた王であった。
善徳女王は647年に世を去るが、彼女が残した制度は後々まで有効に機能し、新羅は676年に朝鮮半島を統一した。
実際に善徳女王が生存して朝鮮半島を統一したわけではないのだが、彼女がその礎を築いたのは確かである。そういう意味では、朝鮮半島の歴史において善徳女王ほど政治的に成功した女性は他にいないだろう。
そんな善徳女王が生きた時代から700年ほどが過ぎてから、奇皇后が高麗王朝で大きな存在感を持っていた。
彼女は1333年に中国大陸を支配する元に渡り、たぐいまれな美貌によって頭角を現して、ついに元で皇后の地位に就いた。
高麗王朝の末期に元の皇后になった奇皇后と新羅の女王である善徳女王は、育った時代も当時の政治状況もまったく違うのだが、奇皇后が善徳女王以来、久々に政治の中枢を担った女性であることは間違いない。
何といっても、高麗王朝は元の干渉を強く受けていて、まったく逆らえない政治情勢だった。その元の皇后であるだけに、奇皇后が高麗王朝にも絶大な影響力を行使できるのも当然のことであった。
ただ、奇皇后には民に慕われる人望がなかった。
たとえば、善徳女王は民から大いに信頼され、その人望を国家運営の基盤にすることができた。
一方の奇皇后は、自分たちの一族で政治を独占しようとした。しかも、横暴な振る舞いは官僚や庶民の反発を買った。
つまり、「民衆のための政治」という面で、善徳女王と奇皇后は決定的に違った。
文=康 熙奉(カン ヒボン)