思悼世子の酒びたりの人生!

1735年に生まれた思悼世子(サドセジャ)は神童と呼ばれた。喜んだ父の英祖(ヨンジョ)は、思悼世子が10歳のときから政治の表舞台にデビューさせた。これがいけなかった。当時の主流派閥は老論派(ノロンパ)だったが、思悼世子は老論派を批判してしまったのだ。





老論派のたくらみ

英祖は思悼世子が14歳のときから政治を一部代行させた。それほど我が子の才能を買っていて、実践を通して帝王学を授けようとしたのだ。
警戒したのが老論派である。
思悼世子が老論派のことを好ましく思っていなかったからだ。
「思悼世子が即位したら我々は危ない」
老論派は危機感を持った。
そこで、思悼世子のことを悪意をもって英祖に伝えた。
最初はまったく信じなかった英祖なのだが、しだいに思悼世子のことに懐疑的になっていった。
とにかく、老論派は英祖に対して、成人後の思悼世子の素行が良くないということをしきりに報告した。
怪しい者たちと遊んだり、公務をさぼったり、服装が乱れたり……。




思悼世子の悪い噂が英祖の耳に入る中で、「思悼世子は酒乱だ」という話も大げさに伝わってきた。
驚いた英祖は思悼世子に禁酒を命じた。
それなのに、1756年5月に1つの事件が起こってしまった。
その一部始終を述べてみよう。
英祖が急に思悼世子のもとを訪ねた。
意表をつかれた思悼世子は、あわてふためいた。
そのとき、服装も乱れていた。
英祖は思悼世子が泥酔していると疑った。
「世は禁酒を申し渡したはずだ。誰が酒を飲ませたのか」
英祖が大きな声を出した。
恐れおののいた思悼世子は自ら白状した。
「自分から飲みました」
しかし、そのときの思悼世子は酒を飲んでいなかった。




それなのに、彼はなぜ酒を飲んだと言ったのか。
かんしゃく持ちの英祖が起こりだすと手がつけられなかったので、その場をとりつくろうために思悼世子はあえて飲酒を認めたのだ。
けれど、それが良くなかった。
かえって英祖の怒りが爆発した。
たまらず、女官が進み出て言った。
「世子様はお酒をまったく飲んでおりません。お酒の臭いをお調べになればわかることでございます」
女官が本当のことを言ったのに、思悼世子は自分から否定した。
「自ら酒を飲んだと申し上げた。余計なことを言うな」
こうした思悼世子の態度を潔いと褒めるかと思ったら、英祖は激しく思悼世子のことを罵倒した。
その光景は周囲が凍りつくほどであった。
この日の出来事が、英祖と思悼世子の確執が表面化した最初であった。




以後、両者の確執は根深くなっていくが、それは老論派が意図した通りであった。
それから6年後、思悼世子が英祖の命令で米びつに閉じ込められて餓死した。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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