張禧嬪(チャン・ヒビン)は親戚に通訳官をしている人がいたことから、そのコネで女官として王宮に入ってきた。大変な美女だったということで、やがて19代王・粛宗(スクチョン)の寵愛を受けるようになった。
わがままな振る舞い
粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后は、張禧嬪は息子にとって危険な存在だと感じ、彼女を王宮から追い出してしまう。
それにより貧しい生活を送ることになってしまった張禧嬪だが、明聖王后が1683年に世を去ると、粛宗の正室である仁顕(イニョン)王后のはからいで戻ってくることができた。本来、張禧嬪は仁顕王后に感謝すべきなのだが、王の寵愛を受けていることをいいことに、感謝するどころかわがままに振る舞うようになった。
自分のしたことを後悔した仁顕王后。そんな彼女の立場を不利にするできごとが起きてしまう。
王の寵愛を受けていた張禧嬪が、1688年に粛宗の長男(後の20代王・景宗〔キョンジョン〕)を産んだのである。
このとき、まだ粛宗と仁顕王后の間に子供はいなかった。
粛宗は初めて息子が生まれたことを喜び、長男を世子(セジャ/王の後継者)の候補として元子(ウォンジャ)にすることを高官たちに伝えた。
それを聞いた高官たちは、仁顕王后がまだ子供を産む可能性があることを理由に大きく反対した。しかし、粛宗はその意見をすべて無視した。
粛宗のわがままが続く。
彼は嫉妬深いという理由をつけて仁顕王后を廃妃にしてしまい、張禧嬪を新たな王妃として迎えている。
このように張禧嬪は人生の絶頂を迎えたが、ここから彼女の人生は大きく転落することになる。
そのきっかけとなったのが、淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の登場である。
当時、王宮で水汲みなどの下働きをしていた彼女に心を奪われた粛宗。すでに張禧嬪への愛を失っていたこともあって、彼は淑嬪・崔氏を寵愛するようになる。その後、淑嬪・崔氏は、1694年に粛宗の息子を産む。
一方の張禧嬪は、粛宗が一度は廃妃にした仁顕王后を王妃に戻したことで没落してしまうが、彼女はそれで終わるような女性ではなかった。
仁顕王后に呪いをかけようと呪詛(じゅそ)を行なった張禧嬪は、神堂を建てて怪しげな祈祷師たちと祈祷を続けた。
それが原因かどうかはわからないが、仁顕王后は1701年に34歳で世を去ってしまった。
淑嬪・崔氏からの告発によって張禧嬪が呪詛を行なっていたことを知った粛宗は、張禧嬪に死罪を言い渡す。
臣下たちは、張禧嬪の息子が世子になっていることを理由に大きく反対するが、粛宗は聞く耳を持たなかった。
張禧嬪は、死ぬ前に息子に会わせてほしいと願い出た。粛宗は親子の対面を許したが、彼女はいきなり世子である息子の腹部の下を強く握った。あまりの痛さに世子は気を失ってしまう。
なぜ張禧嬪は、そんな奇怪なことをしたのだろうか。今に至るまで謎である。
もしかしたら、彼女は精神が錯乱していたのかもしれない。
直後に張禧嬪は死罪で世を去った。
享年42歳であった。
王宮でやりたい放題をしていた張禧嬪なのだが、彼女もまた、粛宗の女性問題に振り回された哀れな女性の1人と言えるかもしれない。
文=康 大地(コウ ダイチ)