王朝盛衰史10「罵声を浴びた仁祖」

1623年、光海君(クァンヘグン)に対して怨みを持っていた綾陽君(ヌンヤングン)がクーデターを起こし、油断していた光海君は廃位となって王宮を追われ、江華島(カンファド)に流罪となりました。





4番目の長寿

光海君の妻も廃妃となって一緒に島流しになります。その妻は船中で光海君に向かって
「こんな辱めを受けたのですから、一緒にここで死にましょう」と迫ります。しかし、光海君は命を惜しみました。
島流しにあったあと、光海君の息子夫婦は逃亡に失敗して死罪になってしまいます。それを悲観した光海君の妻も首を吊って自殺します。このように妻と息子夫婦は悲惨な目に遭いましたが、光海君は長生きしました。
江華島の後に済州島(チェジュド)に流されます。この島は都から一番遠く、重罪人が流されるところです。光海君も、まさか自分がさいはての地に連れていかれるとは思っていませんでした。
周囲も気をつかって、船に幕を張って行き先がわからないようにしました。それでも、済州島に着けばすぐにわかります。
光海君は「こんなさいはての地にまで……」と言って慟哭しました。そばにいた役人は「ご在位中に奸臣に惑わされなければよろしかったのですが……」と言ってなぐさめるしかありませんでした。




それでも、光海君は済州島で長く暮らし、66歳で世を去りました。人の運命というものは、本当にわかりません。光海君は王宮を追放されてから18年間も生きています。結局、27人の王の中で4番目の長寿でした。
クーデターを成功させた綾陽君は、16代王の仁祖(インジョ)になります。諡(おくりな)に「祖」がついていますから、名前だけ見ると政治的にどれほど功績があったのかと思う人もいるでしょうが、実際には屈辱にまみれた王でした。
彼を苦しめたのが、朝鮮半島の北部で日増しに勢力を強めた「後金」です。この国は後に「清」となって中国大陸も制覇します。それほど軍事力に長けた国だったのです。
その後金が仁祖の治世時代にひんぱんに朝鮮王朝を攻撃してきます。まず、1627年に朝鮮王朝は大々的に攻められて危うかったのですが、なんとか和睦に持ち込んで事なきを得ました。




相手の軍事力を考えれば、朝鮮王朝も後金をもっと尊重したほうがよかったのですが、豊臣軍の侵攻のときに支援してくれた明の顔色ばかりうかがって、後金については「田舎の蛮族」とさげすんでいました。
こうした態度は、相手にすぐ悟られてしまいます。朝鮮王朝が和睦条件を守らなかったことで後金が激怒し、国名を「清」に変えたあとの1636年12月に10万人を越える大軍で攻めてきました。朝鮮王朝はまったく太刀打ちできず、仁祖や高官たちはあたふたと都の南にあった山城に逃げ込みます。そこで籠城をしていましたが、ついにこらえきれなくなって翌年1月に清に降伏します。
朝鮮王朝は本当にみじめでした。
まず、都の南側を流れる漢江(ハンガン)のほとりで、仁祖は清の皇帝の前で頭を地面にこするようにして謝罪しました。ここまで王が屈辱にまみれたのは、建国以来一度もなかったことです。
それだけではありません。莫大な賠償金を課されたうえに、仁祖の息子3人は人質として清に連れていかれました。その中には世子になっていた長男の昭顕(ソヒョン)もいました。世継ぎが外国の人質になるほどですから尋常ではありません。仁祖はひどく落胆しました。




しかし、もっと怒り心頭だったのが一般の庶民です。
「王が乱れた生活に明け暮れて、国をしっかり守らないから、こんなことになるんだ」
そんな罵声が都に満ちていました。
清に屈伏した責任はすべて仁祖に向けられたわけです。
「こんなことなら、光海君がそのまま王だったら良かったのに……」
そう思った庶民も多かったことでしょう。
仁祖の評判は散々でした。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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