『七日の王妃』の端敬王后はどんな女性だったのか

『七日の王妃』の重要な登場人物は3人だ。10代王の燕山君(ヨンサングン)と、異母弟の晋城大君(チンソンデグン/後の中宗〔チュンジョン〕)。そして、端敬(タンギョン)王后だ。ドラマの中では異母兄弟の間で激しく揺れる端敬王后だが、実際にはどういう女性だったのだろうか。





運命を変えた1506年

端敬王后は1487年に生まれた。
父は高官の慎守勤(シン・スグン)だった。
端敬王后は名門の家に生まれながら、一時は他家に出されていたことがあって、非常にしっかりした女性として育った。
9代王・成宗(ソンジョン)の二男であった晋城大君と結婚したのは1499年だ。彼女は12歳だったが、1488年に生まれた晋城大君は11歳だった。
端敬王后のほうが1歳上だった。
仲むつまじい夫婦だった2人の人生が大きく変わったのが1506年だ。
このとき、晋城大君の異母兄であった燕山君はクーデターで廃位となってしまった。燕山君はあまりに悪政を続けた暴君であったので、王宮を追放されたのは仕方がなかった。ただし、その影響は端敬王后に及んだ。
なぜなら、端敬王后の父の慎守勤は燕山君の一番の側近であり、クーデターが起こったときに真っ先に殺されたからだ。




しかも、燕山君の正室は慎守勤の妹だった。
つまり、端敬王后の叔母であった。
父を失って悲しみに暮れる端敬王后。彼女は、夫の晋城大君が11代王・中宗として即位したので、王妃となった。
しかし、素直に喜べなかった。
そんな端敬王后に、さらなる試練が襲いかかる。
クーデターを成功させた高官たちは、端敬王后が慎守勤の娘であったことを大きな問題にした。
「父を殺された王妃は、きっとクーデターを起こした者たちを恨んでいるはずだ。しかも、先王の残党たちが王妃をかついで反逆に出るともかぎらない」
高官たちはそう理由を述べて、中宗に対して端敬王后の廃妃を主張した。
もちろん、中宗は抵抗した。
彼は、自分がなりたくて王になったわけではなかった。兄に代わって王位に就くのは気が重かったのだが、高官たちに説得されて仕方なく王になったのである。




このように、臣下にかつがれて王位に上がったのに、さらに愛する妻を離縁することなど到底できない要求だった。
普通なら、王の意思は絶大で、臣下がくつがえせるものではなかった。しかし、中宗の場合は事情が違った。
彼は最終的にクーデターの高官たちに逆らうことができなかった。そこが、「祭り上げられた王」の弱さでもあった。
中宗は泣く泣く妻を離縁した。そうせざるをえなかった彼は、「重臣たちに頭が上がらない王」ということを内外に強烈に印象づけてしまった。
実家に帰されて、端敬王后は元王妃として寂しく暮らした。
それから9年後、すでに中宗は再婚していたのだが、二番目の王妃であった章敬(チャンギョン)王后が1515年に中宗の長男を出産した直後に亡くなった。
再び独身となった中宗。このとき、端敬王后を王妃に復位させるべきだという声が宮中で大きくなったのだが、やはりクーデターを成功させた高官の一部が反対して、それは実現しなかった。




中宗が危篤になったのは1544年のことだ。朝鮮王朝の正式な歴史書である「朝鮮王朝実録」には、端敬王后が王宮の正門に駆けつけた、という記述がある。彼女にしてみれば、中宗に一目だけでも会いたかったのだろう。
しかし、端敬王后が王宮の中に入ることはできなかった。
なんとも無情なことだ。
1544年に中宗が世を去ってから13年後の1557年に、端敬王后は70歳で亡くなった。
廃妃となって寂しく王宮を出てから51年が経っていた。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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