21代王・英祖(ヨンジョ)が歴代王最高齢の82歳で崩御すると、孫のイ・サンが22代王・正祖(チョンジョ)として即位した。その即位は、父の思悼世子(サドセジャ)を死に追いやった政敵の老論派(ノロンパ)との闘いの始まりを意味していた。
大規模な粛清
1776年、即位した正祖が王として最初に放った言葉は、老論派の重臣たちを震え上がらせた。
「寡人(余)は、思悼世子の息子である!」
即位式はドラマ『イ・サン』でも再現されている。同作はフィクションの部分も多いが、この場面は史実通りに構成されている。名君として名高い正祖の誕生は、創作の必要がないほどドラマチックだったのだ。
正祖は、父である思悼世子が亡くなると、罪人の子が王の後継者にはなれないということで、早世していた伯父の孝章世子(ヒョジャンセジャ)の養子になっていた。
にもかかわらず、「思悼世子の息子」と宣言したのは、父を死に追いやった老論派を許さないという決意表明でもあった。
正祖は宣言どおり、老論派への大規模な粛清を開始する。
最初のターゲットとなったのが洪麟漢(ホン・イナン)だった。彼は母の叔父で、むやみに処罰することは難しかったが、それでも正祖は洪麟漢を流罪にしたあとで死罪にしている。
次に処罰を与えたのは、思悼世子の実の妹であり、正祖の叔母にあたる和緩(ファワン)だった。彼女は仲が悪かったという理由だけで兄の謀殺に手を貸し、子供時代の正祖を何度も追放しようとした。
正祖は和緩を厳しく処罰したかったが、叔母である点も考慮しなければならなかった。その結果、王族から平民に降格させるに留めた。
老論派の粛清を進めた正祖だが、身内への処罰だけは難儀した。中でも母の父、洪凰漢(ホン・ボンハン)と、英祖(ヨンジョ)の正室・貞純王后(チョンスンワンフ)の扱いには苦悩した。
洪凰漢は老論派の重鎮で、父の死に深く関与しているのは明白。確実に処罰したい人物でもあった。
しかし、正祖の母が、実の父を殺そうとする息子を止めたため、結局、穏便に済ませるしかなかった。
貞純王后の処罰は洪凰漢よりも難しかった。
彼女は正祖からすれば義理の祖母。民の模範である王が儒教の教えに逆らって、祖母を処罰すれば大変なことになる。
しかし、貞純王后が老論派を扇動していたのは明白であったので、なんとしても処罰したかった。
正祖がどう対処すべきか悩んでいると、宮中に「貞純王后が断食に入っている」という噂が流れた。
こうなると、彼女に対する同情論が巻き起こり、いかに王であろうとも、なかなか手を出せなかった。
このとき、貞純王后の責任を最後まで追及しなかったことが正祖にとって命取りになったかもしれない。
なぜなら、正祖は貞純王后に毒殺された疑いが濃厚だからだ。