対立した光海君と仁祖の物語/第2回

宣祖があと5年ほど生きていたら永昌大君が王になっていた可能性が高い。だからこそ、光海君の一派が毒殺したのではないかと言われている。光海君の側近には、悪女として有名な金介屎(キム・ゲシ)という女性がいた。彼女は、典型的な悪女と言われている恐ろしい策士である。





光海君は最高権力者

金介屎や他の側近が、長男の臨海君を危険分子だとして、1609年に殺害してしまった。
1614年には、腹違いの弟で当時8歳の永昌大君を島流しにして、オンドル(床暖房)の部屋を密閉して焼き殺した。床に爪痕が残っていたという。悲惨な死に方だった。
さらに、光海君は貞明公主と仁穆王后を、現在のソウルの市役所前にある徳寿宮(トクスグン)に幽閉してしまった。
宣祖の二番目の正室の仁穆王后は、光海君からすると継母になる。その継母を軟禁するとか、王妃の資格を剥奪するというのは、長幼の序に厳格な儒教社会ではあってはならないことだ。それが、光海君が後に追放される理由になる。
仁穆王后だけは幽閉してはならなかったが、光海君がやったのか金介屎の指図でやったのか。光海君をいい人と思いたい人は側近のせいにする。しかし、光海君は最高権力者の王である以上、最終的な責任は免れない。




光海君は、兄や異母弟を殺し、継母や妹を幽閉して政権を安定させたが、結果的に1623年にクーデターで王宮を追放させられた。そのため、光海君には暴君というイメージが付きまとっている。
朝鮮王朝27人の王の中で、名前に「君」が付いているのは、燕山君(ヨンサングン)と光海君だけである。朝鮮王朝では亡くなった後に、「祖」や「宗」といった諡(おくりな)がもらえるが、燕山君と光海君は王宮を追放されているので、諡をもらうことができなかった。そのため、後世にいたるまで王子時代の名前を使わざるを得ないのだ。
なお、光海君は1608年から1623年までの15年間統治したが、政治的には大変な名君だったと言われている。
とにかく、外交が巧みだった。当時、朝鮮半島の北にあった後金がすごく強くて、中国大陸を支配していた明と激しく争った。その結果、明は衰退していき、後金のほうは昇り竜となった。
光海君は、明から「朝鮮出兵のときにあれだけ助けたのだから、うちのほうも助けてくれ」と盛んに援軍要請を受ける。しかし、彼は援軍を出さなかった(第3回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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