王宮の烈女と悪女3「昭憲王后」

ハングルを作ったことで有名な4代王・世宗(セジョン)。その彼を支えたのが妻の昭憲(ソホン)王后(1395-1446年)である。彼女が王妃になったことで実家が大いに繁栄したが、その後、まるで奈落の底に落ちたかのように地獄の人生を過ごした。





他の女性のお手本

昭憲王后が3代王・太宗(テジョン)の三男・忠寧(チュンニョン)と結婚したのは13歳のときだった。
1418年、忠寧が21歳で4代王・世宗(セジョン)として即位し、昭憲王后は王妃になった。
彼女の家は、代々重要な官職に就いてきた。それだけ育ちが良かった昭憲王后はおとなしくてやさしい性格なため、他の女性たちのお手本となるような存在だった。
しかし、上王として政治的な実権を握っていた太宗は、王の外戚が力をつけすぎることを警戒していた。
そんな中、昭憲王后の父親である沈温(シム・オン)が外交使節として明まで往来していたときに事件が起きた。
旅に同行していた実弟が王家に対してもらした不満が、太宗の耳に入ってしまったのである。




謀反(むほん)の疑いをかけられた沈温は水原(スウォン)に流され、死罪にされてしまう。
そのことが原因で昭憲王后の実家は没落し、母親は奴婢(朝鮮王朝時代の最下層の身分)に格下げされてしまった。
父母が酷い目にあったことにショックを受けた昭憲王后だが、彼女自身も廃妃の危機に立たされていた。
父親である沈温の成功を妬んでいた者たちから「王妃にそぐわないので、宮殿から追い出せ」という声が上がっていた。
その決定をするのは上王の太宗である。彼は、昭憲王后を廃妃にしてもおかしくなかった。しかし、太宗は彼女を高く評価しており、8人の王子を産んだことを理由に廃妃にはしなかった。
その後、昭憲王后は夫の世宗と仲良く暮らしたが、彼女は、父と母が不幸に陥ったことをずっと嘆いていた。
昭憲王后は1446年に51歳で亡くなったが、彼女の父と母は後に復権して名誉を回復することができた。そのことが、せめてもの救いであった。

文=康 大地(こう だいち)

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