『宮廷女官 チャングムの誓い』を始めとして、多くの時代劇に登場してくる中宗(チュンジョン)。この国王は、1506年から1544年まで38年間も王位に就いていたのだが、なぜ文定(ムンジョン)王后の悪行をほったらかしにしたのだろうか。
気が弱い国王
中宗は、「棚からぼた餅」で国王になった男であった。
彼は、もともと王になる考えはまったくなかったのだが、異母兄の燕山君(ヨンサングン)が1506年にクーデターで王宮を追放されたために、その代わりとして即位したのである。
当初、中宗は「王になりたくない」と駄々をこねてクーデター軍の要請を断り続けた。結局はしぶとく説得されて、即位を受けざるを得なかった。
それなのに、中宗は即位して1週間で端敬(タンギョン)王后を離縁しなければならなくなった。
なぜなら、端敬王后の父は燕山君の一番の側近だったからだ。クーデターを成功させた高官たちは燕山君派の巻き返しを恐れ、中宗に妻の離縁を迫った。
国王という最高権力者である以上、その要請を断ることもできたのに、中宗は高官たちに従ってしまった。
こういうところに、気の弱さが如実にあらわれている。
嫌々国王になったうえに、愛する妻と離縁させられた中宗。彼の苦しみは募る一方であった。
そして、王としてどのような政治をすべきか悩んだ末に、中宗は趙光祖(チョ・グァンジョ)を頼るようになった。
趙光祖は頭脳明晰な高官で、儒教に基づいた王道政治を理想としていた。特別な理念を持たなかった中宗は、趙光祖の考え方に心から傾倒し、彼が目指す王道政治を実現しようとした。
しかし、あまりにも理想に純粋すぎたがゆえに、趙光祖の言動は多くの反発を生む結果となった。
ついに趙光祖は自決せざるを得なくなったのだが、めざす政治に失敗した中宗は心に深い傷を負ってしまった。
一方、中宗の二番目の正室であった章敬(チャンギョン)王后は、長男の仁宗(インジョン)を産んだ直後に亡くなってしまい、中宗は三番目の正室として文定(ムンジョン)王后を迎えた。
この女性は、悪行の限りを尽くした典型的な悪女であった。なにしろ、仁宗の暗殺を謀ったり、中宗の側室を陰謀で追放したり……。
まさに王宮の中でやりたい放題だった。
文定王后の悪行を、中宗はなぜ止められなかったのか。彼が国王として強い権力を発揮すれば、妻を制止することもできたはずなのに……。
1つは中宗の性格にある。
彼は、強いリーダーシップを発揮するというより、優柔不断で決断を周囲の人間にゆだねるところがあった。
さらには、自分の思うようにならない状況に陥って、政治に対する情熱を失ってしまっていた。
こうしたことが重なって、文定王后が数々の悪行を行なっても、中宗はそれを止める強い意志を持たなかった。
そういう中宗の性格や態度を見抜いて、文定王后はさらに悪行を重ねた。
仁宗を毒殺したのも間違いないと言われている。
王の裏で暴走した文定王后。彼女の存在そのものが、朝鮮王朝にとってあまりに不幸なことであった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)