元敬(ウォンギョン)王后は、3代王・太宗(テジョン)の正室となった女性である。彼女ほど夫を王にするために尽力した女性はいない。元敬王后はいったいどんな人生を歩んだのだろうか。
冷え切った夫婦仲
高麗王朝の名門の家に生まれた元敬王后は、1382年に李成桂(イ・ソンゲ)の五男である芳遠(バンウォン)と結婚した女性である。
しかし、それは李成桂が自分の勢力を大きくするために、元敬王后の一族の力を当てにした政略結婚だった。
夫婦となった2人の仲は良く、朝鮮王朝創設のために力を尽くした。その甲斐もあって結婚から10年後の1392年に朝鮮王朝は建国された。
以降、芳遠は王の後継者となるために血のにじむような努力を重ねていく
元敬王后は、夫である芳遠を王にするために尽力した。
彼女は、政敵が攻めてきたことを芳遠に知らせたり、あらかじめ調達しておいた武器を渡してクーデターを成功に導いたりした。
妻である元敬王后の大きな働きによって、1400年に芳遠は3代王・太宗(テジョン)として即位した。それによって、元敬王后も王妃となった。しかし、その後の2人の夫婦仲は今までの仲の良さが嘘のように冷え切ってしまう。
このとき、太宗には12人の側室がいた。彼は、その側室のところばかり通うようになり、元敬王后の部屋を訪れなくなった。
王となった太宗は、朝鮮王朝を存続させるために外戚の力を弱めようと考えていた。その標的となったのは、王妃である元敬王后の実家である。
太宗は、大出世を果たしていた元敬王后の兄弟たちに脅威を感じていた。その結果、元敬王后の2人の兄と2人の弟は処刑され、実家は没落してしまった。
そのような悲劇を受けて立ち直れないほど落ち込んだ元敬王后は、夫を激しく憎んだ。
太宗の側近たちは、元敬王后を廃妃にするように主張した。しかし、太宗は妻を廃妃にはしなかった。理由は、息子を4人も産んだことと王になる過程で自分を支えてくれたことを高く評価していたからだ。
元敬王后の息子は、長男の譲寧(ヤンニョン)大君、二男の孝寧(ヒョニョン)大君、三男の忠寧(チュンニョン)大君、四男の誠寧(ソンニョン)大君である。
悲劇に見舞われた元敬王后にとって、唯一の救いは三男の忠寧が1418年に4代王・世宗(セジョン)として即したことだろう。そのことを大変喜んだ彼女だが、2年後の1420年に55歳で世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)