朝鮮王朝の27の王たちを支えたのが、王妃や側室である。彼女たちは、韓国時代劇のもう1人の主役と言ってもいいだろう。王妃や側室となった女性たちの人物像と歩んだ道をたどってみたい。
大事な後継者選び
1392年に朝鮮王朝を開いた太祖(テジョ/李成桂〔イ・ソンゲ〕)は2人の王妃を迎え、8人の息子をもうけた。
しかし、その兄弟同士で殺し合う後継者争いが起きてしまう。そもそも、2人の王妃が同時にいたことが原因だった。
太祖が最初に妻として迎えたのは神懿(シヌィ)王后。彼女との間に芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンウィ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)という6人の息子をさずかった。
しかし、神懿王后は太祖が朝鮮王朝を開く前年の1391年に、54歳で亡くなってしまった。
太祖は当時、第二夫人の神徳(シンドク)王后(1356-1396年)をめとっており、その間に芳蕃(バンボン)と芳碩(バンソク)という2人の息子をもうけていた。
1392年、太祖の後継者選びが始まった。
8人の息子の中で、もっとも相応しいのは誰が見ても五男の芳遠であり、彼自身も後継者に指名されると思っていた。
しかし、太祖が指名したのは八男の芳碩だった。太祖は自分の決定に対して無理があると理解していたが、愛する神徳王后の願いをつめたく扱うことはできなかった。
芳遠はその決定にすさまじい怒りを示し、父にその決定を変更するように願い出たが、結局変わることなく、芳遠は神徳王后と対立してしまった。
その神徳王后は、自分の死が近いことを感じると、世子(セジャ/王の正式な後継者)の芳碩の命が危ないことを察し、芳遠の排除を画策するが、それが叶わぬまま1396年に世を去った。
時期を見ていた芳遠は、1398年に異母弟の芳蕃と芳碩を殺し、政権を自分の思うままにした。
そして、芳遠は1400年にようやく3代王の太宗(テジョン)として即位した。
すると太宗は、それまでの恨みを晴らすべく、都にあった神徳王后の墓を破壊し、王妃としての資格も剥奪した。生前の神徳王后をよほど憎んでいたのだろう。
時は流れて、18代王の顕宗(ヒョンジョン)の時代に再び神徳王后の墓が整備され、格式も王妃に相当するものに戻された。
神徳王后は死後250年の歳月を経て、復権することができたのである。
文=康 大地(こう だいち)