王妃の歴史実録6/大妃になって極悪人と化した「3人の巨悪王妃」とは誰か

朝鮮王朝では未成年の王が即位した場合、王族最長老の女性が代理で政治を仕切ることになっていた。そういうときこそ、政治が大いに乱れた。腐敗政治の元凶になった3人の大妃(テビ/王の母)を取り上げてみよう。





本当の巨悪とは?

朝鮮王朝の悪女というと、よく「三大悪女」が話題になる。その3人とは、暴君・燕山君(ヨンサングン)の側室として浪費に明け暮れた張緑水(チャン・ノクス)、時代劇によく登場する鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、悪女ぶりが知れ渡っている張禧嬪(チャン・ヒビン)である。
しかし、この3人は権力を持っているわけではなかった。あくまでも、自分の私利私欲のために権力者に媚びて悪事に手を染めたのだ。
むしろ、本当の巨悪は権力を手に入れた側にいた。特に、極悪人ぶりが顕著だったのが、次の3人である。
彼女たちは未成年の王の代理として政治を仕切ることができたので、本当にやりたい放題で政治を乱した。
最初に取り上げるのが文定(ムンジョン)王后〔1501~1565年〕だ。
11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正妻である。




我が子を王位に就かせるため、中宗の先妻の息子だった12代王・仁宗(インジョン)の暗殺を何度も狙った。
実際、仁宗は不可解な急死を遂げているが、文定王后が自らの手で毒殺した疑いがきわめて高い。
その末に、我が子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位すると、文定王后は権力を独占し、賄賂を横行させた。
庶民の怒りは凄まじかったが、文定王后は力で抑圧した。
文定王后が政治を仕切った16世紀中盤には干ばつがあまりに多かった。
餓死者が続出したのだが、文定王后は悪政を続けて見殺しにした。
その一方で、自分の一族で富を独占した。文定王后によって、朝鮮王朝はどれほど不幸に陥ったことか。
その責任は本当に大きい。
次は、貞純(チョンスン)王后〔1745~1805年〕だ。
21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正妻だったが、彼女は英祖より年齢が51歳も年下だった。




なにしろ、英祖の息子であった思悼(サド)世子が10歳上なのである。ところが、相性が悪かったこともあり、思悼世子の失脚をはかって陰で動いた。
結局、思悼世子は米びつの中で餓死した。
貞純王后は、22代王・正祖(チョンジョ)の時代になって辛うじて罪をのがれたが、1800年に正祖が亡くなったときは毒殺説の首謀者と見なされた。
正祖の後を10歳の純祖(スンジョ)が継ぐと、貞純王后は未成年の王の後見人となり、キリスト教徒の大虐殺事件を引き起こしている。
その理由は、政敵にキリスト教徒が多かった、ということだった。その悪政のせいで、多くの人が命を奪われた。
3人目は純元(スヌォン)王后〔1789~1857年〕である。
純祖の正妻だが、夫が気弱なことを利用して、実家の安東(アンドン)・金(キム)氏の一族に重職を独占させた。
さらに、1834年に孫の憲宗(ホンジョン)がわずか7歳で即位すると、王族最長老として政治を私物化して、政権が腐敗する原因を作った。




朝鮮王朝の国力を傾かせたという意味で、純元王后の罪は大きい。
文定王后、貞純王后、純元王后……この3人が王の代理として政治を仕切ったことが、朝鮮王朝にとっては不運だった。あまりの「巨悪」によって、王朝の歴史は無惨なものになってしまった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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