王妃の歴史実録3/母の文定王后が明宗を殺したも同然だった!

朝鮮王朝の13代王だった明宗(ミョンジョン)は、中宗(チュンジョン)と文定(ムンジョン)王后の息子として1534年に生まれた。彼は中宗の二男であったが、母の文定王后は我が子を王にするために悪行のかぎりを尽くした。





悪政の時代

明宗は1545年に11歳で即位した。
彼が王になれたのは、異母兄(中宗の長男)であった12代王・仁宗(インジョン)が在位9カ月で急死したからだ。
それは、不可解な死だった。今では、文定王后によって毒殺された、ということが定説になっている。
明宗が即位したときは未成年だったので、王族の最長老女性が政治を代行することになっていた。それは、つまり、文定王后が実質的に政治を動かすことを意味していた。
そのとき、大出世を果たしたのが、文定王后の弟の尹元衡(ユン・ウォニョン)だった。この弟は朝鮮王朝三大悪女の一人に数えられる妻の鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)と結託して、姉の意図をくみながら仁宗時代に登用された高官たちを次々に粛清していった。結局、政治の腐敗がひどくなり、庶民の生活にも大きな影響が出た。都では権力者を批判する文章が壁に書かれるようになった。




「上では、女が王の上に立って権力を握り、下では、奸臣たちがやりたい放題。これでは国が滅びてしまう。ああ、おそろしいことだ」
本当のことを書かれると、かえって怒りが増幅するものらしい。
文定王后と尹元衡は、批判的な文章に我慢ならなくなり、書いた者たちを徹底的に突き止めようとした。
その過程でも、罪もない人々が濡れ衣を着せられて厳罰を受けた。
こうした横暴を誰よりも悲しんでいたのが、王位に就いていた明宗だった。
明宗は、教養のある王であった。
しかし、母の摂政が長かったために成人後にも独自の政治理念を発揮することができなかった。
そして、実母と叔父が悪政を続けた。
不運にも16世紀なかばには凶作が続いた。人々の暮らしは困窮したが、もはや政治が民を救済することはできなかった。
1565年、文定王后は64歳で人々の怨嗟(えんさ)が満ちあふれたこの世を去った。こうなると、取り巻きの立場は一気に危うくなる。文定王后の威光にすがっていた尹元衡と鄭蘭貞は逃亡した末に自決せざるをえなくなった。




このとき明宗は31歳。混乱した国政を立て直すことを期待されたのだが、もはや彼には生気が残っていなかった。
1567年、明宗は33歳で亡くなった。
名君になる素質があったのに、それをことごとく邪魔したのが、2年前に世を去っていた実母の文定王后だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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