王妃の歴史実録1/光海君の斬首を執拗に主張した仁穆王后!

1623年3月13日の明け方、綾陽君(ヌンヤングン/後の仁祖〔インジョ〕)に統率されたクーデター軍は、内通者の協力を得て王宮内に入り込み、重要な拠点を次々と占拠した。虚をつかれた光海君は、無駄な抵抗をせずに王宮を抜け出した。しかし、彼は後に捕らえられた。

写真=植村誠




激怒する王妃

綾陽君はすぐに慶運宮(キョンウングン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されていた仁穆(インモク)王后のもとに部下の金自点(キム・ジャジョム)を派遣した。
しかし、仁穆王后はこれまでの不平を言った。
「10年間も幽閉されていたが、誰も見舞いに来なかった。あなたたちにはどんな立場があって、こんな夜中に突然やってきたのか」
金自点は、仁穆王后が怒っていることを王宮にいた綾陽君に伝えた。綾陽君は部下たちに命じて、警護の兵を用意して王宮に仁穆王后を迎えようとした。しかし、彼女はかたくなに拒んだ。
その強硬な態度を知って、綾陽君が直接慶運宮に出向いた。彼は門の前にひれ伏し、処罰されるのを待った。
そんな彼に仁穆王后の言葉が伝えられた。
「綾陽君は宗子(チョンサ/本家の長男)だから、王統を継ぐのも当然だ。大きな功績を成し遂げたのに、なぜ処罰されることがあろうか」




仁穆王后はすでに機嫌を直していた。
綾陽君が慶運宮の中庭に通されると、仁穆王后が現れて声をかけてきた。
「私は薄幸の運命を持っているようで、大変な災いを受けました。逆魁(ヨククェ/光海君のこと)が私のことを仇のように思って、私の父母や親族を殺戮(さつりく)し、幼い息子(永昌大君〔ヨンチャンデグン〕)を殺害して私を幽閉したのです。このからだは長い間隔離されて、どんな消息も耳に入ってこないようにされていましたが、まさか、今日のような日がくるとは、夢にも思いませんでした」
このように、仁穆王后は感激の言葉を述べた。
その後は王位の継承に関する手続きなどが話し合われたが、仁穆王后が特に関心をはらったのが光海君の処遇問題だった。
仁穆王后は綾陽君に言った。
「逆魁の罪を知っていますか。私自身に徳が少なくて、母子の道理を尽くすことができませんでした。しかも、倫理は崩れ、国家は滅びる寸前でした。みなさんのおかげで朝廷は安定を取り戻し、怨みも晴らせました。こんなに感激することが他にありますでしょうか。ただ気になるのは、逆魁の父子が今どこにいるかということです」




「みんな、王宮にいます」
「同じ空の下で一緒に住むことができない仇(かたき)です。長く耐えてきましたが、私が直接彼らの首を斬り落としたい。10年間の幽閉生活を生きのびてこられたのは、ひとえに今日という日を待っていたからです。ぜひ仇(あだ)を討ちたい」
綾陽君は仁穆王后の懇願を受け入れるわけにはいかなかった。クーデターで追放したとはいえ、先の王を斬首できるわけがない。
仁穆王后は綾陽君に言った。
「即位して私の意をくんでくれるのならば、私のために復讐するのが孝行というものではないですか」
「このように部下たちがいるのに、私がどうやって思いどおりに振る舞うことができるでしょうか」
「なぜ、部下たちの指示に従う必要があるのですか。父母の仇とは同じ空の下で生きることはできないし、兄弟の仇とは同じ国で生きることはできないのです。逆魁が自分で母子の道理を破り、私にはかならず晴らさなければならない怨みがあり、これだけは絶対に譲ることができない」




仁穆王后は強硬だった。彼女は、執拗に光海君の斬首を主張した。しかし、廃位にした王をさらし首にすることだけは、綾陽君も絶対にできなかった。
結局、綾陽君は仁祖として即位した後も、光海君の斬首を認めなかった。仁穆王后は積年の怨みを完全な形で晴らすことはできなかったのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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