1680年、張禧嬪(チャン・ヒビン)が女官として宮中に入ってくると、その美貌がたちまち評判となって粛宗の目にとまった。そのとき、粛宗が19歳で、張禧嬪が21歳になっていた。
我が子の将来のために
粛宗の母の明聖(ミョンソン)王后は張禧嬪を毛嫌いした。美貌に隠された野心を見抜いたからである。
「あの女は良からぬことを考えている。宮中にこのままいさせてはならぬ」
明聖王后は、粛宗が張禧嬪に心を奪われていることが我慢できなかった。我が子の将来を憂い、その元凶となりそうな芽は早めに摘んでおきたいと考えた。
当時、粛宗の正室は仁顕(イニョン)王后だった。
明聖王后は仁顕王后に言った。
「あの女は毒々しくて悪だくみをしそうですよ。主上(チュサン/王のこと)が最近感情の起伏が激しくなってきたけれど、もしあの女にそそのかされているのならば、国家にとってもわざわいです」
ここまで明聖王后は張禧嬪を嫌悪していたのである。
明聖王后はすぐに手を回して、張禧嬪を宮中から追い出した。王として君臨する粛宗も、母の強い意志には逆らえなかった。
その明聖王后が長生きしていれば、張禧嬪が王宮で日の目を見る機会は二度となかったはずなのだが……。
事態が急転した。始まりは、粛宗が重い病を患ったことだった。
高熱を発し、主治医も治療法を見つけられない病状となった。
ワラにもすがりたい明聖王后は巫女(みこ)を呼んだ。
まさに神頼みであった。
お祓(はら)いの祈祷をした巫女が明聖王后に言った。
「お母様に宿った悪霊が殿下を苦しめているのです」
こう言われて明聖王后は仰天した。
「私についた悪霊が……」
すぐに明聖王后は、悪霊を取り除くために、身を清める水浴びを何度も繰り返して行なった。
ときは真冬だった。
明聖王后はあまりに冷水を浴びすぎたゆえに寝込んでしまった。
無理がたたったのである。
結局、明聖王后は1683年に世を去った。まだ41歳だったが、我が子を溺愛する気持ちが死を招いた。
不思議なことが起きるものだ。明聖王后が亡くなると、粛宗の熱が下がって彼は全快したのである。
母は自らの身を犠牲にして息子を救ったともいえる。
明聖王后が亡くなったあと、もう張禧嬪を敵視する人はいなかった。粛宗の希望もあって、張禧嬪が王宮に呼び戻された。
以後、張禧嬪は粛宗の寵愛を一身に受けた。
彼女は側室になり、1688年に粛宗の長男を産んだ。さらに、1689年に仁顕王后が廃妃となり、空いた王妃の座に昇格した。
こうした張禧嬪の栄華を、草葉の蔭で明聖王后はどんなに嘆いたことだろうか。
文=康 熙奉(カン ヒボン)