タグ:日韓

  • 日韓の間にこんな交流があった15/元寇

    日本は、7世紀や8世紀に中国大陸の唐や朝鮮半島の新羅に使節を派遣して政治制度や生活様式を学んだ。しかし、国内で政治体制を確立してからは隣国との接触に積極的ではなくなった。以後、日本は大陸にあまり目を向けなくなった。その間…
  • 日韓の間にこんな交流があった14/高麗郡の誕生

    西武池袋線は、池袋から西武秩父まで通っている鉄道だが、中間に位置する飯能駅の2つ先に「高麗(こま)」という駅がある。駅名からしていかにも高句麗にゆかりがありそうな土地である。 [caption id="attachme…
  • 日韓の間にこんな交流があった13/大磯に定住した高句麗人

    新羅と唐の連合軍は、660年に百済を滅ぼしたあと、次に高句麗の攻撃を狙った。危機を感じた高句麗は、666年に援軍要請のための使節を日本に派遣した。その中に若光(じゃっこう)がいた。彼は高句麗の王族の1人だった。 [ca…
  • 日韓の間にこんな交流があった12/近江の石塔寺

    百済から日本に渡来してきた人々の多くが定住した場所が近江であった。近江というのは江戸時代までの国名だが、近淡海(ちかつあわうみ)という古称に由来している。この場合の淡海とは琵琶湖のことで、近江は「琵琶湖の近くの土地」とい…
  • 日韓の間にこんな交流があった11/百済寺跡と鬼室神社

    660年に百済が滅んだあと、多くの難民が日本に渡ってきた。百済では最後の国王であった義慈王(ウィジャワン)の直系子孫は絶えたが、日本には義慈王の息子の勇がいた。この勇は、663年の白村江の戦いに敗れた豊璋の弟で、664年…
  • 日韓の間にこんな交流があった10/白村江の戦い

    660年、百済が新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた。都の扶余(プヨ)は7日間燃え続けた。百済の王家も崩壊した。ただし、復興を信じて局地的に戦ったのが鬼室福信(キシルポクシン)である。百済最後の国王であった義慈王のいとこだ…
  • 日韓の間にこんな交流があった9/京都と秦氏

    古代の渡来人の集団の中でも特に有力だった秦氏(はたうじ)。この一族が日本に来たのは、4世紀から5世紀の頃と推定される。以後、秦氏は渡来系として急速に勢力を拡大。彼らは、養蚕機織や農業灌漑の技術を持っていることが強みだった…
  • 日韓の間にこんな交流があった8「高句麗と日本」

    中国大陸で589年に隋が統一を果たすと、高句麗(コグリョ)は身が凍るほどの脅威を感じた。それまで高句麗は日本と関係を保っていなかった。しかし、隋の攻撃を受け始めると、「西から侵攻を受けるなら、東の国と連携しよう」という気…
  • 日韓の間にこんな交流があった7/浅草寺の縁起

    東京の浅草寺の本尊は観世音菩薩だが、隅田川から引き上げられたという縁起(由来)がある。その由来には、いったいどんな要点があるのだろうか。 川の中から出てきた仏像 その昔、隅田川で檜前(ひのくま)浜成(はまなり)…
  • 日韓の間にこんな交流があった6/善光寺の絶対秘仏

    飛鳥寺に今も残る大仏が日本で最古の仏像の1つとされているが、他にも「最古では?」と目される仏像がある。それが善光寺の本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」。ただし、絶対秘仏で見ることはできない。 「お戒壇めぐり」 善光…

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