西武池袋線は、池袋から西武秩父まで通っている鉄道だが、中間に位置する飯能駅の2つ先に「高麗(こま)」という駅がある。駅名からしていかにも高句麗にゆかりがありそうな土地である。
東国に移る渡来人
西武池袋線の「高麗」駅の改札口を出ると、正面に2つの塔が見える。真っ赤に塗られた塔の右側に「天下大将軍」、左側に「地下女将軍」と記されている。それだけでなく、2つの塔の上には怒りの表情を浮かべる人の顔が付いている。
もともとは、朝鮮半島において村の入口に設置して魔よけの役割を果たしたものだという。
それにしても、なぜ朝鮮半島に古くから伝わる習俗が高麗駅の真ん前で再現されているのか。それは、1300年前に高句麗人がこの地を開拓したからである。その歴史にあやかっているのが、「天下大将軍」であり、「地下女将軍」なのだ。
この2つの塔をまじまじと見たあと、しばらくは武蔵丘陵を歩いてみよう。すぐに川が見えてくるが、その名は高麗川だ。他に、「高麗」という名がついた学校や公共施設などがある。現在の行政区域は埼玉県日高市なのだが……。
高麗駅から40分ほど歩くと、聖天院(しょうでんいん)にたどりつく。入り口には、例の「大将軍」と「女将軍」の塔が建っている。それだけで、この寺も高句麗にゆかりがあることがわかる。
山門をくぐらず、そのまま右に進むと、すぐに「高麗王廟」に出た。社の中に高さ2・3mの石塔がある。これが墓に該当するのだが、祀られているのは誰なのか。
実は、あの若光(じゃっこう)である。8世紀の初めに大磯に定住していたはずの彼の墓が、なぜ埼玉県の日高市にあるのか。
それを語る前に、7世紀後半に畿内から東国に移る渡来人がいかに多かったかを見てみよう。『日高市史』(埼玉県日高市発行)は次のように記録している。
・684年、朝廷は百済人23人を武蔵に移した。
・687年、高句麗人56人を常陸に、新羅人14人を下野に、新羅人22人を武蔵に移した。
・689年、下野へ新羅人を移住させた。
・690年、新羅人12人が武蔵に、新羅人の若干が下野に移った。
日本に来ても渡来人は故国ごとに分類されて「百済人」「高句麗人」「新羅人」と呼ばれていたが、彼らは次々に武蔵(現在の東京都と埼玉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)に移っていった。朝廷が東国開発を本格化させていた影響を受けたものだ。
そうした移住政策の一環として、若光に率いられた高句麗人たちが706年から相模に定住したわけだが、朝廷はさらに大規模な東国開発を計画し、716年に実施された。その際、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸、下野に住む高句麗人1799人を武蔵に移して「高麗郡」を新設した。
新たな郡が設置された背景には、東国に分散していた高句麗人たちを同じ場所に集中させることを嘆願する勢力の存在がある。それは、高句麗系の特権階級たちだ。彼らは、百済系や新羅系とは一線を画し、自分たちの勢力を関東で集約させることを願った。それが高麗郡への集中移住に結びついた。
しかし、すでに居住地で生活の基盤を作っている高句麗人も多く、移住には不満も出た。そうした不満を抑える指導者が必要となった。その適任者が、すでに大磯で実績を作っていた若光だったのである。彼は最初の高麗郡長官に任命されて、相模から武蔵に移ってきた。
高句麗が滅亡する2年前の666年に日本に来ているから、716年というと、すでに50年の歳月が流れている。当時としては、どれほどの高齢だったのか。それにもかかわらず、彼はりっぱに職責を果たし、新しい土地で尊敬を集めた。
その若光の菩提寺として751年に創建されたのが聖天院である。高麗郡の本寺として知られ、江戸時代には「院主の格式は諸公に準ずる」と言われるほどの格式を誇った。若光の墓と伝えられる「高麗王廟」が聖天院にあるのも、そこが彼の菩提寺だからだ。
その聖天院から500mほど北には高麗神社がある。若光を祀る神社で、宮司は若光の子孫が代々務めている。
今に至るまで、若光の血が旧高麗郡の地に伝わっていることに驚く。古代が連綿と現代につながっていることの証明ではないだろうか。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)