日本は、7世紀や8世紀に中国大陸の唐や朝鮮半島の新羅に使節を派遣して政治制度や生活様式を学んだ。しかし、国内で政治体制を確立してからは隣国との接触に積極的ではなくなった。以後、日本は大陸にあまり目を向けなくなった。その間に朝鮮半島の情勢はどのようになっていたのか。
元の領土的野心
高麗(コリョ)王朝は918年に建国されたが、初代王の王建(ワン・ゴン)が希代の英雄として活躍し、936年に朝鮮半島を統一した。その後は典型的な仏教国として高麗は朝鮮半島唯一の政権を築いたが、異民族の侵入にいつも苦しめられた。その中でも最大の脅威が蒙古だった。
高麗は、最強の蒙古に都の開京(ケギョン/現在の開城〔ケソン〕)を攻められた。1231年のことである。
多大な犠牲を払いながら抵抗し続けた高麗。一旦は両国の間で和議が成立したが、蒙古の野心が消えたわけではなかった。和議は破綻し、高麗はさらに蒙古から厳しく侵攻された。
結局、40年ほどの激戦の末に高麗は蒙古に屈伏。以後は過酷な蒙古の支配が始まった。1271年に蒙古は国号を「元」と改めた。
元の領土的野心は、次に日本に向かった。そのとき、元は高麗の兵力と経済力を徹底的に利用した。高麗は日本を攻めるための船を900隻も造らされたうえに、多くの兵士が先兵の役目を負わされた。
元軍2万人と高麗軍6000人が朝鮮半島の南岸を出発したのは、1274年(文永11年)の10月3日だった。まずは対馬と壱岐が占領された。勢いに載る元・高麗連合軍は、10月19日に博多湾に侵入し、翌日から上陸を開始した。
こうして文永の役が始まった。
元・高麗連合軍は日本の軍勢を圧倒した。その際には、火薬砲弾や毒矢という最新兵器が威力を発揮した。博多の町は焼かれ、日本は絶望的な状況になった。
しかし、思わぬ吉報が日本の陣にもたらされた。連合軍が陸上で野営せずに船のほうに引き上げたのである。
連合軍にすれば、夜間の奇襲を極端に恐れた結果の行動だった。しかし、彼らは日本の奇襲を警戒するより、海上の気象を心配すべきだったのだ。
激しい暴風雨が連合軍の船を襲ったのは、10月20日の夜だった。台風には勝てない。海上の連合軍は壊滅状態となった。
台風のおかげで侵攻を防いだとはいえ、日本が感じた恐怖は底なしだった。
鎌倉幕府は守りを固めるために、九州の御家人に命じて防塁を造らせた。規模は、博多湾の沿岸20キロメートルに及んだ。
防塁の高さは約2・5m。すべて突貫工事で造られた。元がすぐに襲ってくるかもわからないので、可能なかぎり防塁構築を急いだ。
最初の侵攻から6年。元の軍勢が再び博多湾に押し寄せてきた。
前回は元と高麗の連合軍だったが、今回はさらに、揚子江の南に勢力を持っていた南宋の軍も加わった。
兵力は10数万人。この圧倒的多数の兵士たちが二手(ふたて)に分かれ、1281年(弘安4年)6月に九州北部を襲ってきた。これが弘安の役である。
日本は絶体絶命の危機に陥ったが、救いとなったのがあの“防塁”だった。延々と海岸線に造られた防塁を見て、連合軍は上陸時に多大な犠牲者が出ると考え、防塁を迂回する戦術を取った。これが兵力の分散を招いた。しかも、寄せ集めの連合軍は連携で失敗し、一枚岩になれない弱さを露呈した。
連合軍が混乱しているのを見抜いた日本は、博多湾に浮かぶ船団を小舟で夜襲して小さな戦功を重ねた。
そうやってかろうじて防いでいるときに神風がやってきた。7月末に台風が襲ってきて、連合軍の船団は甚大な被害を受けた。一気に、14万人の兵力が4分の1に激減したともいう。こうなっては侵攻を続けられない。連合軍は目的を達せられないまま退却していった。
二度にわたる元寇は高麗を奈落の底に突き落とした。莫大な戦費が特に痛かった。さらに、朝鮮半島南岸では倭寇の活動が活発になった。
高麗はどれだけ倭寇の被害に苦しんだことか。滅亡の大きな理由として倭寇を挙げる学説も多い。
一方、鎌倉幕府も二度の元寇を通して政権の力が弱まり、こちらも滅亡への坂道を転がり落ちるようになった。
歴史は、一つの出来事が次代を動かす連鎖の繰り返しだ。高麗も鎌倉幕府も元寇の影響からは逃れられなかった。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)