光海君(クァンヘグン)はなぜ兄を差し置いて王になれたのか

15年間の統治

臨海君と違って光海君は、義兵を集めて戦功をあげた。貢献度という面では、兄の臨海君とは雲泥の差であった。
それを恥じたのか、臨海君は釈放されたあとも生活が荒れてしまって、さらに評判を悪くした。
結局、戦乱の中で後継者を早く決めなければならない立場に追い込まれた宣祖は、世子として光海君を指名した。しかし、あくまでも臨時の決定であった。
朝鮮出兵が終わり、ひとときの安定を取り戻すと、朝鮮王朝でも再び後継者問題が重要になってきた。
やがて大きな変化があった。
宣祖が二番目の王妃として迎えた仁穆(インモク)王后が1606年に嫡子の永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのだ。
宣祖としても、側室が産んだ王子よりも正室が産んだ王子を後継者に指名したいという欲があった。実際、彼はその意向を側近に伝えている。
宣祖がもっと長生きしていれば、次の王には永昌大君が選ばれていたはずだ。しかし、宣祖は1608年に亡くなってしまった。
そのとき、永昌大君はわずか2歳。いくら嫡子とはいえ、満足に言葉もしゃべれない2歳で王になるのは無理だ。
そんな事情があって、光海君が宣祖の後を継いで15代王になった。
彼の統治は1623年までだった。仁祖(インジョ)が起こしたクーデターで王宮を追放されてしまったからだ。
1608年から1623年までの15年間、政治だけに焦点を当てると、光海君は名君にも匹敵する手腕を発揮している。

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