歴史の中の仕事人1「医官のホ・ジュン(許浚)」

朝鮮王朝において医官の地位は、中人(チュンイン)という身分でさして高くなかった。しかし、腕がいいと評判の者は、王族の主治医として召し抱えられることもあった。王族の主治医になるのは魅力的だが、いいことばかりではない。万が一、王族が病で命を落としたら、その担当医は大きな責任が負わされるからだ。





医学の道を志す

朝鮮王朝の長い歴史の中で、医官と言えばホ・ジュン(許浚/?~1615年)の名前がすぐに浮かぶ。彼は名家の息子として生まれたが、庶子(妾の子供)であったため官僚としての出世は望めなかった。
ホ・ジュンはそうした境遇の中でも腐らず、医学の道を志すようになった。庶子とはいえ医官なら技術と知識で出世することも可能だったからだ。
ホ・ジュンはメキメキと実力を付けていく。20代後半になるころには王朝の医科試験に合格して、内医院(王族の薬を調合する部署)で働き始めた。
内医院の中でも抜群の実力を持ったホ・ジュンは、働き始めてわずか1年で王族の主治医に抜擢された。彼は大役に臆することなく優れた能力を発揮して、王族の信頼をつかみ取った。
ホ・ジュンの立派なところは、そこで満足せずに更なる医学知識の研鑚に努めたことだ。彼は朝鮮王朝のみならず中国の医学書まで読みあさり、その実力を高めていった。




1592年、豊臣軍による壬辰倭乱(イムジンウェラン/日本でいえば文禄の役)が始まった。
この戦いで朝鮮王朝は劣勢を強いられた。都にまで伸びた戦火の前に、14代王・宣祖(ソンジョ)は、臣下を連れてただ逃げることしかできなかった。その時、宣祖が引き連れた家臣の中にホ・ジュンの姿もあった。
ホ・ジュンは宣祖との逃避行の最中、正しい医学知識がないために命を散らす民衆を多く見た。彼はその姿を見て、「わかりやすく正しい医学書」の必要性を感じた。
1598年、長く王朝を苦しめた戦争は終結した。戦時中、片時も宣祖から離れなかったホ・ジュンは、高官へと出世した。
これには、多くの臣下たちから非難の声があがった。しかし、ホ・ジュンに高い信頼感を持つ宣祖はそうした訴えをすべて無視した。
ホ・ジュンは宣祖の配慮に深く感謝して、今まで以上に医学に没頭するようになる。しかし、ホ・ジュンの思い通じず、1608年に宣祖は亡くなった。
王に可愛がられたホ・ジュンに嫉妬した臣下たちが、ホ・ジュンの職務怠慢だと上訴した。




臣下たちはホ・ジュンに「責任を取って自決するか僻地に行くか」と迫った。
宣祖の後を継いだ15代王・光海君(クァンヘグン)は、そうした訴えを取り下げさせようとしたが、結局、ホ・ジュンを地方へ左遷させるしかなかった。
しかし、幼少の頃からホ・ジュンに診てもらっていた光海君は、命令をすぐに撤回するとホ・ジュンを自分の主治医として指名した。60歳を越えていたホ・ジュンは、朝廷の医官として復職し、これまで以上に職務に励んだ。
ホ・ジュンは王宮に復帰後に、医学の基礎知識をまとめた書籍「東医宝鑑(トンイポグァン)」を完成させた。編纂開始から実に14年もの時がたっていた。
「東医宝鑑」は、病気を種類別に分類してまとめただけではなく、病気に対する普段からの予防や心構えまでも網羅してあった。
1615年、「東医宝鑑」が完成した7年後にホ・ジュンは息を引き取った。一説には彼は死に際の枕元に「東医宝鑑」を置いて息を引き取ったとまで言われている。それほど、この医学書はホ・ジュンにとってのすべてだった。
「東医宝鑑」の完成によって、当時の医学は格段と向上した。彼の魂の医学書は、間違いなく朝鮮医学の発展の礎となった。

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