19代王の粛宗(スクチョン)は孝宗(ヒョジョン)の孫にあたります。在位期間中は農業と商業を活性化させて庶民の生活水準を向上させたことが功績になっています。その一方で、自己中心的で女性問題で何度もトラブルを起こしています。
息子を救った母
粛宗は1674年に13歳で即位しました。「希代の妖女」と言われた張禧嬪(チャン・ヒビン)を宮中で見初めたのは1680年のことです。その当時、張禧嬪は宮中で女官という立場にありましたが、粛宗はその美貌に一目ぼれして、「寝ても覚めても張禧嬪」という状態になりました。
その様子に危機感を持ったのが粛宗の母親の明聖(ミョンソン)王后です。粛宗を溺愛していた彼女は女の勘で「張禧嬪は息子に災いをもたらす」と察し、すぐに「あの女を王宮から追放せよ」とお達しを出します。それによって張禧嬪は宮中から追い出されてしまいます。
その後、粛宗は原因不明の高熱で重体になってしまいます。息子の一大事に取り乱した明聖王后は、ワラにもすがる思いで巫女を呼びました。その巫女が全快を願う祈祷を続けたうえで、明聖王后にこう言いました。
「大妃(テビ)様の背中に何かがとりついていて、殿下を苦しめています」
明聖王后は巫女の言葉をすっかり信用し、真冬にもかかわらず何度も何度も水を浴びました。身を清めて、とりついているものを祓(はら)おうというわけです。
しかし、度が過ぎたようです。冷水を浴びすぎたことが原因でからだを壊し、明聖王后は亡くなってしまいます。すると、粛宗がコロッと治りました。彼は母の命と引き換えに全快したのです。
張禧嬪はどうなったでしょうか。
あのまま王宮の外に出されたままなら、朝鮮王朝の歴史で彼女の出番はなかったのですが、粛宗の正妻だった仁顕(イニョン)王后が張禧嬪を救います。
「あれほど殿下が寵愛する女性を、このまま王宮の外においてはかわいそう。彼女を呼び戻してあげなさい」
そう命令を出したわけです。
仁顕王后は、人がいいにもほどがあります。やがて自分が張禧嬪のせいで王宮を追われることになるというのに……。
とにかく、仁顕王后のはからいで、粛宗は再び張禧嬪と会えるようになりました。
粛宗というのは、本当に周囲の人間に恵まれています。母が命を犠牲にしてくれたり、妻が愛人を呼び戻してくれたり……。これで、彼のわがままな性格が増長していったのも間違いありません。
1688年に張禧嬪は粛宗の息子を産みました。
すると粛宗は高官がみんな反対しているのにもかかわらず、仁顕王后を王宮から追い出そうとします。
張禧嬪を側室から王妃に格上げさせるためです。
「朝鮮王朝実録」には、粛宗が反対する高官たちに語った言葉が残っています。
「中宮(王妃)は妬みがひどすぎて、余は閉口するばかりだ」
「婦人の妬みは昔からあることだが、どうして中宮はそんなに恐ろしいことを平気で言えるのか」
仁顕王后に対する非難のオンパレードです。
読めば読むほど、“これほど自己中心でわがままな男はいない”と思えるほど支離滅裂です。
結局は、我を通して粛宗は仁顕王后を離縁しました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)