6人の歴史重要人物5「張禧嬪」

張禧嬪(チャン・ヒビン)が王宮の女官になったのは1680年頃と推定される。通訳をしていた役人の親戚として採用されたのだ。その美貌は、宮中でもすぐに評判になった。「部類の女好き」と言われた粛宗(スクチョン)が見逃すはずがなかった。





王宮から追い出された

すぐに粛宗は張禧嬪にメロメロになってしまった。
しかし、張禧嬪に潜む「魔性」にすぐ気づいたのが、粛宗の母であった明聖(ミョンソン)王后だった。
「あの女は危険きわまりない」
明聖王后は、息子である粛宗を惑わす女だとして張禧嬪を警戒し、ついに王宮から追い出してしまった。
これで、張禧嬪は出世の道を断たれた。このまま明聖王后が元気だったら、張禧嬪が王宮に戻ることは絶対にできなかった。
しかし、明聖王后は1683年に41歳で急死してしまった。
もう張禧嬪を追い出す王族女性はいなかった。彼女は王宮に戻ってきて、粛宗の寵愛を受けた。
1688年、張禧嬪は王子を産んだ。27歳の粛宗にとって初めての息子だった。




息子が生まれてよほどうれしかっのか、粛宗は1689年に仁顕(イニョン)王后を廃妃にして、空いた王妃の座に側室の張禧嬪を迎え入れた。
しかし、張禧嬪の評判は良くなかった。慕われていた仁顕王后を追い出したという印象があまりに強かったからだ。
特に、仁顕王后が粛宗によって離縁された顛末(てんまつ)を風刺した小説「謝氏南征記(サシナムジョンギ)」が市中に出回ると、庶民は改めて仁顕王后に同情し、張禧嬪に批判の目を向けた。
粛宗も「謝氏南征記」を読んだようだが、怒るよりむしろ仁顕王后を哀れに思う気持ちが強くなった。
それは、張禧嬪からはっきり心が離れたことを意味していた。一時はあれほど惚れ込んでいた女性だったのだが、粛宗は優柔不断な性格で、時間とともに張禧嬪を王妃にしたことを後悔し始めた。
そんなとき、粛宗の目にとまったのが淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏だった。時代劇『トンイ』の主人公になった女性である。




張禧嬪のもとを訪ねる回数がめっきり減った粛宗は、その代わりに、淑嬪・崔氏のもとを足しげく通うようになった。
張禧嬪は王の寵愛を受けて王妃にまでなったのだが、その寵愛を失えば結果は見えていた。ちょうど政変が起きて、張禧嬪の後ろ楯となっていた派閥が力を失うと、張禧嬪の立場はとたんに弱くなった。
ひんぱんに心変わりする粛宗は、1694年に今度は張禧嬪の廃妃と仁顕王后の復位を決めた。
さらに、淑嬪・崔氏が男子を産んだ。粛宗にとっては次男にあたる王子だった。
一方、せっかく王妃に復位した仁顕王后だが、病弱であったことがわざわいして1701年に34歳で世を去った。
その後に、淑嬪・崔氏の証言によって、張禧嬪が仁顕王后の死を願って呪術を繰り返していたことが暴露された。
粛宗の怒りは尋常ではなかった。
「大罪である。死罪にせよ」




この王命には高官たちが反対した。すでに張禧嬪が産んだ王子が世子に決まっていたからだ。将来王になる男の母が死罪となれば、後々に禍根を残す可能性が高かった。翻意を求められた粛宗ではあったが、最終的に死罪を取り消さなかった。
1701年、張禧嬪は42歳で絶命した。
以後、「善の仁顕王后」対「悪の張禧嬪」という図式が残り、張禧嬪は酷評を受け続けてきた。
張禧嬪は、世間が言うほど本当に悪女だったのか。
そのように疑問に思うのは、張禧嬪に関する世間の評判が「朝鮮王朝実録」の記述のみに依っているからだ。ここで、その記述の背景を見てみよう。
粛宗は在位が46年間に及んだので、実録をまとめる作業に大変な時間がかかった。しかも、次の王となった景宗(キョンジョン/張禧嬪の息子)が在位4年で世を去ったために、その作業は英祖(ヨンジョ)に引き継がれた。
それを機に編集責任者が交代し、実務担当者は英祖の息がかかった者ばかりになった。英祖は淑嬪・崔氏の息子であり、その母は張禧嬪と対立していた。こうした経緯もあって、「朝鮮王朝実録」の編集作業は張禧嬪に不利な形になってしまったのだ。




張禧嬪は果たして、悪女だったのか。
あるいは、人物像を歪められただけなのか。
彼女の正体は謎だらけだ。それがかえって興味津々な人物像となり、韓国時代劇に何度も登場するほどのキャラクターになった。
いずれにしても、一介の女官から王妃になり、その王妃から転落して最後に死罪となる人生は、ドラマにふさわしいほどに波瀾万丈だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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