朝鮮王朝の27人の王の中で、在位期間が一番短かったのは12代王・仁宗(インジョン)の8カ月。逆に、一番長かったのは52年間も王位に就いていた21代王・英祖(ヨンジョ)である。80歳を過ぎても王の座に就いていたのは彼しかいない。
悲惨な出来事
英祖といえば、1762年の大事件が有名である。
それは、次の国王の座が約束されていた思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めて餓死させた事件である。
あまりにも悲惨な出来事であり、息子を米びつに閉じ込めた英祖は、無慈悲な父と思われてきた。
確かに、やってはいけない暴挙である。
しかし、英祖はなぜそこまでやらなければならなかったのか。
「朝鮮王朝実録」の記述をこまめに読んでいくと、英祖が朝鮮王朝の王位継承を深刻に憂慮していたことがわかる。
思悼世子は頭脳明晰な世子(セジャ)であったはずなのに、成長するとともに酒乱で素行が悪くなり、側室を殺したり家臣に暴力を振るったりしていた。しかも、怪しげな人物たちと放蕩を繰り返した。
父親の英祖は、思悼世子が本心から反省をして素行を改めることを願っていた。そのためにきつい叱責をしたことが何度もある。
それでも、思悼世子は同じことを繰り返しており、最後は英祖も耐え忍ぶことができなかった。
とにかく英祖は、「連綿と続いてきた朝鮮王朝の王位継承を、自分の代で決して終わらしてはならない」という強い使命感を持っていた。
そんな英祖はこう考えた。
「いまの思悼世子であれば、朝鮮王朝の王位を受け継がせるわけにはいかない」
そう考えれば考えるほど、英祖は思悼世子の息子であった正祖(チョンジョ)に特別に注目した。
幼いながらも考えがしっかりしており、学問にも励んでいた。
そこで英祖は、「思悼世子を飛び越えて正祖に自分の王位を継がせたい」と考えたに違いない。
それを窺わせる英祖の言葉が「朝鮮王朝実録」に何度か載っている。結局、英祖はやむを得ず思悼世子を米びつに閉じ込めてしまった。
英祖は、思悼世子が餓死した後に、息子を心から哀悼している。
彼は偏屈な性格ではあったが、ただ感情のおもむくままに思悼世子を米びつに閉じ込めたわけではない。英祖なりに、朝鮮王朝の行く末を心から案じて、やむを得ない行動に出たのである。
そんな英祖によって正祖は高く評価されていた。
王位継承をスムーズに行なうために、英祖は晩年に、正祖に代理聴政(テリチョンジョン/摂政のこと)をさせる方針を貫いた。
これは高官たちに大反対された。
しかし、英祖はどんな反対にも強気な姿勢で臨み、決して高官たちの思うようにはさせなかった。
その末に、正祖は22代王になれたのである。
52年間も王位を守り続けた英祖は、さらに、自分が一番期待する孫に朝鮮王朝の舵取りを委ねた。
正祖は朝鮮王朝屈指の名君となったが、英祖の「朝鮮王朝の王位継承を強く守る気持ち」が叶ってこその結果であった。
文=「韓流テスギ」編集部