王宮の烈女と悪女5「貞熹王后」

7代王・世祖(セジョ)がまだ王子時代だった1428年に彼と結婚した貞熹(チョンヒ)王后(1418-1483年)。本来は次男で王位に縁がないはずの夫が1455年に甥から王位を奪い、その結果、貞熹王后も王妃になることができた。





3歳では無理

王妃は朝鮮王朝で「国母(クンモ)」と呼ばれた。
女性の最高位であったことは間違いない。
それほどの身分になった貞熹王后だが、大きな悲しみが二度もあった。
息子2人がともに19歳で亡くなってしまったのだ。
特に貞熹王后の次男であった8代王・睿宗(イェジョン)は、即位してわずか1年2カ月で絶命してしまった。
夫の世祖もすでに世を去っていたので、貞熹王后はすぐに後継者を選ばなければならなかった。
早世した睿宗には2人の息子がいたが、長男はすでに亡くなっていて、二男の斉安(チェアン)がまだ3歳だった。
斉安が成人するまで母親や祖母が王位を守るという方法もあったが、結局は「3歳では無理」という結論になった。




貞熹王后は睿宗の兄であった懿敬(ウィギョン/貞熹王后の長男)の息子2人の中から王を選ぶことにした。
長男は月山君(ウォルサングン)で、次男は者山君(チャサングン)である。この2人のうち貞熹王后が指名したのは者山君のほうだった。
表向きの理由は月山君が病弱のためということだが、貞熹王后が選択した本当の理由は、「者山君を王にしたほうが貞熹王后が自在に操れる」ということだった。
いわば、強引に押し切ったような形である。
こうして者山君は9代王・成宗(ソンジョン)として即位したが、貞熹王后は代理聴政(テリチョンジョン/摂政のこと)を行なって、大きな権力を得た。
貞熹王后は実際には漢字が読めなかったと言われている。そういう人が政治を仕切るのは、朝鮮王朝でも異例だった。
しかし、貞熹王后の後ろには、者山君の母であった仁粋(インス)大妃が控えていた。彼女は王族女性の修身の教科書を執筆するほどの博学だった。
この仁粋大妃をうまく利用しながら、貞熹王后は女性ながら王朝政治の主導権を握っていった。

文=康 大地(こう だいち)

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