朝鮮王朝の16代王・仁祖(インジョ)が食べるアワビの焼き物に毒が盛られていることが発覚したのは1646年1月3日のことだった。宮中は大騒ぎになった。それはそうだろう。王の食卓にのぼる料理に毒を盛るというのは、あまりに大胆な手口だった。
昭顕世子に続いて妻までもが……
すぐに犯人さがしが始まった。
「徹底的に調べろ」
仁祖の側近が厳命した。
多くの人が取り調べを受けたが、疑いが非常に濃いと目されたのは意外な女性だった。それは、昭顕(ソヒョン)世子の妻の姜氏(カンシ)だったのである。
すでに昭顕世子は前年の4月に世を去っていた。
その死は不可解だった。彼は清の人質から解放されて帰国した2カ月後に急死したのである。当時も、仁祖と側室の趙氏(チョシ)に毒殺されたという疑いがあった。昭顕世子が人質時代に清にかぶれてしまい、清を憎んでいた仁祖が激怒して息子を殺したという噂が立っていたのである。
それから、9カ月後に今度は妻の姜氏が、仁祖毒殺の容疑者にさせられようとしていたのである。
事情を知る人たちは違う見方をしていた。
「趙氏の捏造に違いない」
そう思うには根拠があった。趙氏は姜氏を極端に嫌っていて、罠に掛ける可能性が高かったからだ。
宮中でそんな噂が広まっているというのに、趙氏の命令で姜氏に仕えていた女官が捕らえられて拷問を受けた。
この拷問はあまりに苛酷すぎた。
女官は耐えることができず、偽りの自白を強いられた。
「毒殺を指図したのは姜氏です」
ここまでは趙氏の思うとおりになった。
すると、趙氏の後ろ楯になっていた仁祖は、1646年2月3日に王命を発した。
「彼女の罪は明白である。余を毒殺しようとはかる者とは、1日といえども生を共にしたくない」
仁祖は姜氏を強く非難して死罪を宣告した。
しかし、それが茶番であることは高官たちが見抜いていた。
高官たちの多くが姜氏の死罪に猛反対した。しかし、仁祖の意を受けた高官の金自点(キム・ジャジョム)が、姜氏の死罪を強く主張して形勢を引っ繰り返した。この金自点は趙氏と利害を一致させる相棒であった。
すべては、仁祖と趙氏と金自点の3人によって仕組まれていた。
罪に陥れられた哀れな姜氏は3月13日に実家に帰されてしまい、その後に自決を強要された。
それだけではなかった。
姜氏の母や兄弟たちは何の罪もないのに処刑され、彼女の息子3人は済州島(チェジュド)に流された。
さらに、そのうちの2人は不審な死を遂げている。趙氏と金自点の差し金によって殺された疑いが濃い。
悲劇に見舞われた昭顕世子と妻の姜氏。この夫婦の死に関わったとされる趙氏は、歴史的には貴人(キイン)・趙氏(チョシ)として知られる。または、昭容(ソヨン)・趙氏と呼ばれることもある。彼女は、朝鮮王朝の暗い歴史に残る悪女であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)